般若波羅蜜 (6) 禅定

 禅定という語は、サンスクリット語dhyana(ディヤーナ)、パーリ語jhana(ジャーナ)の音写である「禅」という語と、その意味をとって訳した「定」という語を複合したことばです。語義は、心静かに瞑想し、真理を観察するということです。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態をいいます。

 道元禅師の『正法眼蔵』(八大人覚)に、「三つには楽寂静。諸のカイ鬧を離れ、空閑に独処す。楽寂静と名づく」とあります。ちなみに、「楽」は願うという意味です。また、親鸞聖人も『教行信証』(顕浄土真仏土文類 )において、『涅槃経』を引用し、「涅槃の性これ大寂静なり。なにをもつてのゆゑに、一切カイ鬧の法を遠離せるゆゑに。大寂をもつてのゆゑに大涅槃と名づく」と記されています。

 ここで、「カイ鬧」というあまり見慣れない文字が出てまいります。「カイ(りっしんべんに貴)」は、心乱れるという意味です。「鬧」の部首「鬥」は、とうがまえとか、たたかいがまえといって、その字形は武器を持った二人がたたかう様子を象ったもので、やかましいとか、騒がしいという意味になります。

 要するに、内的には心のざわつきや乱れ、外的には騒々しさから解放しようとすることが禅定であり、そこから解放された状態が寂静、そして、すべての螯鬧から完全に解放されたとき涅槃というのであります。

 ところで、茶道において、その心得として「和敬清寂」(四規)ということがいわれます。お互い仲良く(和)、敬いあって(敬)、見た目だけでなく心も清らかに(清)、何事にも動じない心(寂)を持って、お手前をするときも、お茶をいただくときも心がけなさいというのです。

 茶道は、仏道、とりわけ禅との関わりが深く、和敬清寂の「寂」は、この禅定に通じるものであります。そして、留意すべきは、「寂」は、和・敬・清と別個に切り離されてあるものではないということです。つまり、「寂」は、ただ己一人が心静かにして居ればよいというのではなく、和・敬・清の心得が整って、初めて実現できるということであります。

 また、武道においては「動中静」ということが求められます。確かに、剣道や柔道の達人というのは、動きがどっしりしています。鍛錬によって、どんな場合にも対応できるだけのものを持っているからでありましょう。このことは、よく、独楽に譬えられます。独楽は勢いよく回っているときは、あたかも止まっているように見えます。バタバタ、ドタドタするのはしっかり回っていないからで、要は、不完全、未熟であることに他なりません。

 茶道においても、武道においても、「寂・静」ということが求められますが、それは芸道探究の目標点であります。仏道においての「寂静」は、真理探究の目標点であります。目標に向かって、芸道は日々稽古といわれますように、仏道においても、日々、仏法に耳を傾け、禅定波羅蜜に心がけることこそ、肝要なのであります。

 現代人は喧騒の中で生活しています。常に不平不満を抱え、声が大きい方が勝ちとばかりに、声を張り上げ、我鳴りたてています。また、不安や怖れからか、あえて喧騒の中に身を置き、一時の忘却に現を抜かしております。しかし、心の平安、仏教用語では「安心」を得ようとするならば、禅定波羅蜜なくしてありえません。

 具体的には、詳細は省きますが、釈尊が最初の説法(初転法輪)で説かれた「四聖諦」(苦諦・集諦・滅諦・道諦)、そして、根本教理である「三法印」(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の体得にあります。この仏法の智慧は、禅定波羅蜜によって育まれます。

 ただ、『維摩経』に、面白いエピソードがあります。

 釈尊が、智慧第一といわれた舎利弗に、病で伏している維摩を見舞うように命じられます。ところが、舎利弗は、「維摩居士のところ行くことだけは許していただきたい」というのです。弁解の理由はこうです。

 あるとき、林の中で坐禅をしていたときです。維摩がやってきて、「坐禅とは、林の中だけでするものではない。日常の振る舞い、世間のつとめを果たしながら、悟りへの道を実践するのが本当の坐禅である」といわれ、返す言葉がなかったというのです。

 つまり、俗世間から離れるのではなく、むしろ、積極的にかかわる中で、宗教的境地を求めよというわけです。これこそ大乗仏教の基本スタンスであり、大乗仏教における禅定波羅蜜がいかなるものかを考える上で、重要な示唆を与えてくれています。

(2009/3/18)