般若波羅蜜(5) 精進

 仏門に入って間もない頃に、先輩僧から決まって、繰り返し繰り返し指導を受けるのは「一掃除、二勤行、三学問」ということであります。仏道に限らず、かつて、修行と呼ばれるものは、もしくは奉公にしても、小僧時代というものはこれに類する教育方針で、叩き上げられたものであります。

 ところが、今日、一般家庭において、お母さん方は、わが子に対してことあるごとにいっているのは「勉強しなさい!」ということですから、その努力目標の第一にあげているのは、「学問」ということになります。

 なぜか、その理由は極めて単純で、「勉強して、良い成績を取って、いい学校に入って、一流会社に就職して、いいお嫁さんをもらって…」と、つまり、「学問」を金儲けの手段と考えているからであります。しかも、お金と直接結びつかない「掃除」は、努力目標から除外されてしまいました。

 今ここで、その是非を論ずるつもりはありませんが、本来、仏道でいうところの「精進」は、金儲けとか地位名誉、我欲のために奮闘努力する「勤勉」とは別物であるということを認識しておかなければなりません。

 日本人は、勤勉な民族であるといわれています。確かに、歴史的に見ましても、第二次大戦後に急速な経済復興をなしえたということからしても、間違いないところでありましょう。そして、多くの人は、勤勉であることは、手放しで善であると思っています。ところが、それは「勤勉=精進」という勘違いからくるものです。

 勤勉は、その根底に我欲を満たすことにあるため、どうしても、なにがしかの犠牲が伴います。たとえば、会社のため、出世のためと家族を犠牲にしてでも頑張る、単身赴任のお父さんしかり、より安く、より便利にと企業努力する大型スーパーマーケットの進出の陰で、シャッターを閉め、消えていかざるをえない商店街しかり、であります。

 一方、精進はあくまで菩薩道ですから、「上求菩提、下化衆生」、つまり、上に向かっては、自ら仏の悟りを希求し仏道を修行しながら、下に向かっては、利他の行として衆生を教化し救済していこうという、大いなる誓願を心の内に持っていることが大前提なのであります。ですから、予め進むべき方向性は定まっているはずのものであり、道元禅師の『正法眼蔵』「八大人覚」の巻には「諸の善法に於て、懃修すること無間なり、故に精進という。精にして雑ならず、進んで退かず」とあり、その純粋さ、一途さを求めています。

 ところが、精進といえば、単に頑張ること、あるいは、肉類を使わない「精進料理」、初七日法要の後に食べる「精進落し」ほどの認識でしかないのが、われわれ凡夫であります。ときに、妙好人と呼ばれる、名もなく学問も特に受けていない市井の人でありながら、信仰心篤く、宗教的高い境地に達していて、その言動に心うつものを持った人の伝記がいくつか編纂されていますが、ここで、その中から一つのエピソードを紹介させていただきます。

 あるとき、お寺で説教師さんが「自分は極楽に行けると思う人は手を挙げてごらん」といわれた。すると、お互い自信なさげに顔を見合わせいるばかりの大衆の中、ただ一人、威勢よく手を挙げた者がいた。

 続いて、説教師さんが「では、自分は地獄に堕ちると思う人は手を挙げでごらん」といわれた。今度も、誰もがまさか自分はそれほど悪い人間ではないと思っているので、手を挙げようとしない中、ただ一人、手を挙げた者がいた。

 説教師さん、よく見れば手を挙げた者は同じ人物である。そこで不思議に思って、その理由を尋ねたところ、「堕ちるのは我が役目、救うのは弥陀の役目」と答えたといいます。

 さて、所詮われわれは罪深き凡夫です。少しは善いことをしたからといって、怠ける、怒る、嘘をつく、見栄を張る…、実に実に恥ずかしい自分であり、地獄に堕ちるしかないのです。しかし、そんな自分を救わんと、代わって精進して下さっているのが阿弥陀如来であると気づいたとき、ほれぼれと報恩感謝の念仏を称えることができ、精進を精進と意識せず励むことができるのです。

 我欲の張った凡夫であるわれわれですが、金儲けが悪いということではありません。法然上人は、「(恋愛)歌を詠むのは罪になりますか?」の問いに対して、「あながちに罪になるとはいえない。但し、罪ともなり、功徳ともなる」と答えておられます。金儲けも、いい儲け方をし、いい使い方をしたらよいのです。

(2009/2/18)