般若波羅蜜 (4) 忍辱

 映画などで、悪役が牢獄から解放され、「やっぱり、娑婆の空気はうめぇなあ」などという台詞を吐くのを耳にされたことがあるかと思います。そこでの「娑婆」は、牢獄・軍隊・遊郭など自由を束縛された世界ではない外の世界、つまり、「世間」といった意味で使われますが、「娑婆」は本来、サンスクリット語Saha(サハー)を音写したもので、「忍耐」を意味する言葉です。そこで、「忍土」とも訳され、仏の世界「浄土」に対して、われわれが住んでいる苦しみ多い現世のことをいいます。

 つまり、この世は、欲を持った衆生の集まりですから、程度の差こそあれ、それぞれがてんでに自分勝手な言い分で生きていますので、互いに傷つけられたといいつつ、相手を傷つけて、夏目漱石の『草枕』の冒頭にありますように、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」ということになります。

 われわれは、よほど腹の据わった者でないかぎり、人の噂や風評を結構気にしながら生きています。ところが、「人の口に戸は立てられぬ」という諺にもあるように、世間の口はうるさいもので、「心穏やかに」とは思っても、なかなかうまくいきません。釈尊は、次のように仰っています。

 『法句経』二二七番

 アツラよ     (*弟子の名)
 こは
 古より謂うところ
 今日に始まるにあらず
 「ひとは黙して座するをそしり
 多くかたるをそしり
 また
 少しくかたるをそしる
 およそこの世に
 そしりをうけざるはなし」

 おそらく、アツラというお弟子が、人からの悪口を気にして悩んでいたのでしょう。
 
「世間の人は『あいつは黙っていて何もしゃべらない』といってはそしり、逆に『おしゃべりだ』といってはそしる。また『いうべきこともいわない』といってはそしる。結局のところ、どうにもこうにも、何をしようが、そしりや非難は免れないものだ。これは昔からちっとも変わっていない。今に始まったことではない」と諭しておられます。

 ですから、人の噂や風評に一喜一憂することはつまらないことですが、だからといって、「耳をふさげ」ということではありません。悪口や辱めを、善意の忠告と受け止め、耐え忍ぶことが大切なのです。それを、「忍辱」といいます。釈尊でさえ、提婆達多という人物にはずいぶん難儀させられたと仏典にはあり、偉大な宗教家しかり、歴史に名を残し偉業を達成された方々、全部が全部、この忍辱波羅蜜を実践された結果であるといっても過言ではありますまい。

 そして、忍辱波羅蜜を実践するにあたって、最大のポイントは、「怨み」の感情をどうするかにあります。釈尊は、次のように仰っています。

 『法句経』五番

 まこと、怨みごころは
 いかなるすべをもつとも
 怨みを懐くその日まで
 ひとの世にはやみがたし
 うらみなさによりてのみ
 うらみはついに消ゆるべし
 こは易らざる真理なり

 「どんな手だてをしようが、自分が怨みを懐いているかぎり、敵対関係がなくなることはない。しかし、自分が怨むことを止めれば、敵対関係は消えてなくなる。これは変わることのない真理である」というのです。

 確かに、人間関係はもちろん、国と国との関係においても同じで、近年のイスラエルとパレスチナにおける紛争は、怨みの行動が新たな怨みを生むということの繰り返しで、その報道を見るにつけ、聞くにつけ胸が痛みます。

 ところがどっこい、他人事でなく、かつて、日本も先の大戦の折、多くの国に怨みを買う行為をいたしました。そして、敗戦、昭和二十六年サンフランシスコ講和条約会議において、各国が日本の責任を追及する中、セイロン(現スリランカ)代表は、釈尊のこの言葉を引用して、「憎悪は憎悪によって取り除かれることはない。だから我が国は、賠償を日本に求める権利はあるが、請求するつもりはない」と演説されました。

 このような事実があったことは、あまり知られておりません。われわれ仏教徒として、人間関係の調和、大きく世界平和を考えるとき、このエピソードと共に、繰り返し、繰り返し二二七番と五番の法句経を噛みしめて、忍辱波羅蜜を実践していこうという心構えを持ち続けたいものであります。

(2009/1/18)