十牛図

 今号は、丑年にちなみ十牛図を取り上げさせていただきます。

 これは文字どおり「十の牛の図」ということでありますが、単なる牛の絵が十種描いてあるわけではありません。牛が描いてないものもあれば、半分だけ、あるいは何も描いてないものまであります。それぞれに、奥深い意味がありそうです。それもそのはず、禅の修行者(青年)が、十のプロセスを経て、悟り(牛)にいたる道筋を説き示したものであります。

 本来、禅の神髄、自己の面目、あるいは悟りを主題としているわけですから、軽々に扱うべきものではありませんが、仏道修行だけにかぎらず、書道・華道・歌道・武道等、道を求める者には、何かしら得るものがあるはずです。その一端ですが、覗いてみることにいたしましょう。

一、尋牛 

 画中に牛は未だいない。不安げにきょろきょろ何かを探す若者。何を探したらよいか、本人にも解らない。力尽きて求むるにところなし。そもそも何を探したらよいかも解らない。

二、見跡 

 牛の足跡を見つける。しかし、牛を見たわけではない。良い言葉を聞くと、判ったような気になるもの。「これだ」と思えも、それは言葉だけの悟りを先取りしているにすぎない。

三、見牛 

 牛のお尻をちらっと見つける。右手に綱を持って、見つけた牛を捕まえるべく構える。しかし、牛は逃げて行く。これを追えば良いことだけが解っている状態。

四、得牛 

 ようやく牛を捕まえるが、牛は暴れて逃れんとする。双方、離れ、かつ、離すまいと、綱がピーンと張っている。深い境地に遊ぶような心境を体験することもあるが、すぐに深い妄想の中にこの牛は居座ってしまう。

五、牧牛 

 紐で結んで、牛の先を歩く。牛は素直になって青年に従う。綱は緩んでいる。自己の中の葛藤が無くなり、牛が馴染んでくる。牛の示す方向に進んでいるとも見える。しかし、まだ、綱が付いている。油断すると本来の自己が、また逃げる。

六、騎牛帰家

 牛をつなぐ紐はない。牛の背に乗って笛を吹く。楽しげに先へ進む。遙か彼方に思いをはせ、安らぎの「家」を想う。自分と自分の居場所とも調和し、周囲とも調和した状況。ただ、ここでいい気持ちになって、停滞する危険性が隠されている。

七、忘牛存人 

 この図では、牛が消えている。牛は、青年の胸の内にいる。家の外に出て、「修業のお陰でここまで来た」と、遠い山の彼方の月を拝んでいる。ところが、「一体になった」と思う己が心の中に潜んでいる。ここまで来ると「これで悟った」と思うが、自惚れである。

八、人牛倶忘

 ただの円。自分の姿も、牛もない。家も自分も牛も消え、空円相あるのみ。実は、今までの絵は、すべて円の中にあった。円は真実を示す。

九、返本還源

 青年はいない。老梅樹が川辺に開花している。この絵は、無我性の具現である。梅花は、我ならざる「蘇った無我の我」である。水は自ずから茫茫、花は自ずから紅。我を忘れて、花になっている。

十、入てん垂手

 入てんとは、店の並んでいる街に入ること。垂手とは、手をブラブラとしていること。布袋様のような老人と向かい合う青年。二人してぶらぶらと歩く。老人は、自らの過去の経歴・経験も忘却し、青年と一体になり、自分と他者との交わりそのものが、無我(自己ならざる自己)の状態となることを表す。我と汝の二人が、そのまま「我」である。一見愚者のごとく、街をさすらい歩き、慈悲を世界にふりまいて生きる姿である。

(2008/12/18)