般若波羅蜜 (3) 持戒

 「誰でもよかった」といって殺人をする(殺生)。公金で裏金を作って飲み食い無駄遣いする(偸盗)。不倫離婚再婚を繰りかえす芸能人(邪婬)。偽装や振り込め詐欺で人を騙す(妄語)。飲酒運転でひき逃げをする(飲酒)――。

 近年、このような事件のニュースを聞くことが、何と多いことでありましょう。しかも、罪の意識が希薄で、連日伝えられる悲しい報道に、ただ虚しさを感じます。仏教信者であれば護持しなくてはならない五つの戒め、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒は、今、このような時代だからこそ、それぞれの人が真剣に、保とうという意識を持たねばなりません。

 戒律というのは、本来、修行者の生活規律のことで、仏のいましめを自発的に守ろうとする心の働きをいう戒と、僧に対する他律的な規範をいう律との合成語であります。ただ、一般的には、信者が信仰生活において守るべき規律・規則のことをさし、仏教に限らず、他の宗教にもあります。

 しかし、宗教によって、信者がその戒を守ろうとする意識構造はよほど違います。 たとえば、ユダヤ教のモーセの十戒の場合、

@あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
Aあなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
Bあなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。C安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
Dあなたの父と母を敬え。
E殺してはならない。
F姦淫してはならない。
G盗んではならない。
Hあなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
Iあなたの隣人の家を欲しがってはならない。

以上、前半四つは神に対する人間の義務、後半六つは人間関係の倫理規定であります。これは、唯一神ヤーウェとイスラエル民族との契約であり、遵守する者には恩恵が、違反する者には報復が予定され、そこには極めて厳格な律法主義の思想があります。

 一方、キリスト教の戒律に相当するイエスの山上の垂訓の場合、律法は、神の恩寵への感謝として守るべきものであるとし、福音による神の救済を説きました。ここに、キリスト教が民族の枠を超えて、ユダヤ教とは一線を画す世界宗教への道が開かれました。

 そこ(マタイによる福音書第五章〜七章)には、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」、「右の頬を打たれれば、左も向けよ」、「汝の敵を愛せよ」、「裁くな、裁かれないためである」、「何でも人にしてもらいたいと思うことは、その人にせよ」、「狭き門より入れ」といった、キリスト教の中心的教義が述べられております。ただ、たとえば姦淫に関しても「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、すでに心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまえ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」と、実に厳しく、律法的傾向の側面は否めません。

 仏教学者鈴木大拙氏は、そのあたりを評して、ユダヤ教・キリスト教は、厳然たる父的宗教であり、それに対し、仏教は、罪をも包み込む母的宗教であると指摘されています。

 すなわち、われわれ仏教徒は、 『法句経』一八二番

 ひとの生を うくるはかたく
 やがて死すべきものの
 いま生命あるはありがたし
 正法を 耳にするはかたく
 諸仏の 世に出づるも
 ありがたし

を、 先ず拠り所とすべきでありましょう。ただ「欲しかったから」と盗ったり、「好きになったから」と不倫して、「自由に生きてどこが悪い」と嘯いているようでは、畜生にも劣る生き方といわざるをえません。犬でも猫でも、まして、ゴキブリでもない、奇しくも人間として生をうけたわけですから、生きているかぎり、人間としての資質を磨く努力を怠ってはなりますまい。今の自分より、少しでも優れた人の話を、常に聞くように心がけることが大切です。

 仏道修行、つまり、智慧の完成を目指そうとする般若波羅蜜は、出家者(僧)だけのものではなく、仏教徒すべてのものです。中でも持戒は、生活を正すという意味で、基本中の基本です。
 しかし、凡夫なるが故、如何ともしがたく破戒せねばならないときもあります。そのときは、我が愚かさに、血涙を流すほどに懺悔をし、共に泣いて下さる仏にすがり、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのです。

(2008/11/18)