般若波羅蜜(2) 布施


 智慧を完成するためには、六つの実践徳目、すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の「六波羅蜜」が説かれます。ただ、六番目の智慧波羅蜜こそを最終目標とするわけですから、前の五波羅蜜は、智慧波羅蜜に包括されるべきものであり、それを完成するための準備手段であるといえます。

 そこで、順次、五波羅蜜のそれぞれについてお話しさせていただきます。まず今回は、第一番目の布施波羅蜜についてです。

 布施のことを、サンスクリット語でダーナ(dana)といいます。音写すると檀那となり、「檀那寺」や「家の檀那」といった使い方もしますが、そこにはやはり施す、さらに発展的に、パトロンとか、恩恵を与えてくれる者という意味が含まれております。

 仏道修行としての布施波羅蜜は、ただ単に施せばよいということではありません。賄賂のような不純な動機であっては、当然だめですし、自分に入らなくなったものを処分するような上げ方をするのもよくありません。三輪清浄の布施といって、布施する主体(施者)、布施する相手(受者)、布施する物品(施物)の三つが清らかなものでなくてはならないとされるのです。

 仏典にこんな話があります。

 釈尊が霊鷲山で説法していたときのことです。マガダ国の王は、豪勢な食事のほかに、たくさんの灯明を捧げ供養されました。一方、城下に住む、一老婆も何とか供養したいと望んだものの、一文のお金も持っておりません。

 そこで通行人からお金を恵んでもらったり、自らの髪を切り、それを売ってお金に換えたりして、わずかばかりの油を買い、それを灯明として捧げました。釈尊の前には、多くの信者からの灯火が明々とともり、老婆の灯火はいかにもみすぼらしく、今にも消えてしまいそうなものでした。

 ところが、そこに烈風が吹いて、ほとんどの灯明を消し去ってしまいましたが、ただ一つ、老婆の捧げた灯明だけが、周りを照らし続けたというのです。

 これは、財力に物を言わせた王様の万灯よりも、真心を込めた貧者の一灯のほうが尊い、という教えであります。

 また、『ジャータカ(本生譚)』という、釈尊の前世の物語の中には、「諸行無常・是生滅法」の後の偈文である「生滅滅已・寂滅為楽」を教えてもらうために、羅刹(悪鬼)に命を捧げた雪山童子の話や、空腹の老人を救うために、焚き火に身を投じて、我が身を捧げたウサギの話のように、捨身施の事例が幾つか見られます。

 ただ、このような布施波羅蜜は、はなはだ厳しく難しい菩薩行であり、われわれ凡夫では実践しがたいものと言わざるを得ません。そこで、もっと容易で、お金のかからない布施があるということで、『増宝蔵経』に「無財の七施」が説かれています。

(1)眼施……優しい温かいまなざしで人に接する。
(2)和顔施…優しいほほ笑みをもって人に接する。
(3)言辞施…優しい言葉をかける。
(4)身施……肉体を使って人のため社会のために働く。
(5)心施……心から共に喜び共に悲しみ、感謝する。
(6)床座施…自分の座席や地位を譲る。
(7)房舎施…雨露をしのぐ場所などを分け与える。

 以上、七つある中で、先ずもって実践するよう心がけたいのは、A和顔施とB言辞施で、『無量寿経』には「和顔愛語」という言葉で出てきます。道元禅師は、『正法眼蔵』の「菩提薩四摂法」の巻で、「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。(慈悲の言葉には、よく天を廻転する力があることを学ばねばならない、それはただ賞めるだけのものではない。)」と述べておられます。

 これは私自身の体験なのですが、まだ世間のことが分からず、思い悩んでいたときに、「そう悩むな。この世のことはこの世で収まる」といって慰めて下さった方がおられます。もう、故人となられましたが、私にとっては、天をぐるっと廻して、真っ暗闇の世界から明るい世界へ引き戻してくださった恩人として、忘れえぬ人となっています。

 ですから、布施は、金品などを与える「財施」だけではなく、教えを説き与える「法施」、怖れをとり除いてやる「無畏施」の三施があります。そして、布施する行為は、欲があってはできません。しかし、「禁欲」を勧めるのではありません。禁欲は、心に歪みをもたらしやすく、あくまで欲は少なく、足るを知る「少欲知足」に心がけるべきであります。

(2008/10/18)