般若波羅蜜(その1)

 現代の日本人に「信仰する宗教は何か?」という問いに対して、「無宗教」と答える方が少なくありません。また、「危険なもので、近づかない方がよい」と考えている人も少なからずおられるのではないかと思われます。理由はさておき、仏教界に身を置くものとして、残念に思います。

 今から二十五年前、私自身仏教についてよく知りませんでしたので、皆様とご一緒に勉強させていただくつもりで、月刊『潮音寺だより』を発刊いたしました。それが、今月号でひとつの区切りである三百回目を迎えました。そこで、「仏教・仏法・仏道とは何か?」、私なりの三百回分の総決算のつもりで、今回の表題とさせていただきました。

 キリスト教・イスラム教とならんで、世界三大宗教のひとつである「仏教」は、古くは、「仏法」あるいは「仏道」と呼ばれることが多かったようです。道元禅師は、『正法眼蔵』の第一「現成公案」の巻にて、「仏道を習うは、自己を習うなり」とおっしゃっています。仏教を学ぶ者にとって、先ず、ここのところを押さえておかねばなりません。

 私ども、凡夫なるがゆえ、つい愚痴が出るものです。愚痴が出るのは、不満があるからで、自分自身が面白くないのは無論、言われた方も、これまた面白くありません。愚痴は、周り全体を不幸にする厄介なものです。つまり、仏教は、この愚痴が出ないようにするための教えであるといえます。

 愚痴のことを無明ともいい、道理に暗くて適確な判断が下せず、迷い悩む心の働きをいい、煩悩の中でももっとも根源的なものといわれます。梵語では、モーハ(moha)、音写して「莫迦」、それが「馬鹿」になったということですので、要は、智慧が足りないということです。ただ、ここでの智慧は、単に学校の成績がよいとか、金儲けの才に長けているというようなことではありません。

 釈尊が、まだ在世中のお話です。

 インド北部に、二人の兄弟がおりました。縁あって、二人とも釈尊のお弟子になりました。兄はとても賢く、釈尊の教えをよく理解し、深く仏教に帰依していました。弟の名は、チューラパンタカ(周利槃特)といい、ものを覚えるのが苦手で、自分の名前すらも覚えられず、いつも人から笑われていました。

 兄は、そんな弟を心配し、釈尊から聞いた教えを短い詩にまとめて、なんとか弟に覚えさせようとしますが、朝覚えたと思っても、昼にはもう忘れてしまうのです。

 とうとう兄は、弟に僧団から出るよう突き放しました。それを聞いたチューラパンタカは、門前で自分の愚かさに涙を流しながら途方にくれていました。

 そんなチューラパンタカに、釈尊が優しく諭しました。

 「おまえは愚者ではない。愚者でありながら、自分が愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。おまえはおのれを知っている。だから真の愚者ではない。自分が愚かであることに気づいている者こそ、智慧ある人というのだ。」

 そして、チューラパンタカに「塵を払い、垢を除かん」というごく簡単な偈文を教え、一本の箒を渡しました。

 それからというもの、彼は、来る日も来る日も、ただひとつの偈文、「塵を払い、垢を除かん」を唱えつつ掃除に励みました。そして、ついには「迷いは塵や垢である。智慧こそ、これ心の箒である」と悟り、阿羅漢という聖者の位に達することができたと、仏典にあります。

 今回の表題である「般若波羅蜜」は、チューラパンタカが達した「智慧の完成」を意味する梵語を音写したものです。つまり、仏教が目指すところの悟りを意味します。詳しくは次回に譲りますが、私ども、奇しくも人間として生をうけているからには、「食うためだけに生きる」では、他の動物と変わらず、情けないことです。

 『法句経』一八二番に、

 聞くこと少なきひとは
 かの犂をひく牡牛のごとく
 ただ老ゆるなり
 その肉は肥ゆれど
 その智慧は増すことなからん

とあります。

 若い頃は、何もかもが新鮮で、いろいろな話を聞こう、聞こうとしますが、年齢を重ねるに従って、どうしてもこれまでの経験だけで間に合うと思ってか、他の人の意見や話を聞こうとしなくなる傾向があります。むしろ、聞かせよう、聞かせようとしたがるものです。

 釈尊は、「食ってばかりいないで、良い話を多く聞きなさい」とおっしゃっています。私どもには、実に、耳の痛いお言葉です。

(2008/9/18)