自由自在

 私が子供の頃、確か『自由自在』という、小学生・中学生を対象とした学習参考書がありました。今でもあるのでしょうか。私は姉のお古を使っていましたが、内容はずいぶんと難しかったように記憶しています。出版社の意図は、普段からレベルの高い問題に慣れ、こなしていくことによって、どんな難問にも「自由自在」に対応できるようになる、ということでありましょう。

 今日使っている「自由」という言葉は、英語の「freedom」「liberty」の訳語として使っている場合が多いようです。日常会話の中でも使用頻度の高い言葉ですから、普段何気なく使っていますが、哲学、あるいは社会学・政治学の方面から語るとなれば、なかなかどうして、一筋縄でいく言葉ではありません。

 元来、「自由」という言葉には、「自らに由る」という語義から、何ものにも束縛されずに自主的に行動するなどの積極的な意味と、自分の思い通りにする、勝手気ままにふるまうなどの反価値的な意味の二通りの用法があります。仏教においても、二つの使われ方の用例が見えますが、もちろん、大切なのは前者の方であります。

 ただ、初期の漢訳仏典では、「諸仏は法に於て最も自在なるを得」〔『法華経』(信解品)〕「不可思議の自在なる神通」〔『維摩経』(法供養品)〕などのように、「自由」よりも「自在」の語の方が多く用いられています。「自由」もしくは「自由自在」の語が、煩悩の束縛から離れた解脱の境地を説明する言葉として用いられるようになるのは、唐・宋の禅学文献からであります。

 今回、この「自由自在」についてお話しさせていただくのは、「自分には、上から束縛されていて自由がない」といって苦悩している青年を知っているものですから、それに対する一つの回答として提示させていただこうと思ったからであります。それは、会社での人間関係や嫁姑の関係にも共通する問題でもあります。

 我々は、他からの束縛を受けたくないと思っていますが、世の中は、自分以外はすべて他人、自分一人で生きているわけではありませんので、完全な自由にはなり得ません。二人以上いるところでは某かの約束事があり、拘束を受けることになります。国家、会社、学校、サークル、家庭といった組織には、それぞれに、名前こそ違いますが、法律・規範・約束事があります。しかし、それを行使する側とされる側によって、意識はまるで違いますし、束縛する、あるいはされる度合いの意識も、個人個人ずいぶん違うものです。

 たとえば、「禁煙」ということに関していえば、個人の嗜好を奪うありえない束縛であると感じる人もいれば、一大人が守るべき当然の約束事として、ルールに沿って喫煙を楽しもうとする人もいます。一方、喫煙者に対しては、毒ガスのサリンでもまき散らす犯罪人のような目で見る人もいれば、別に、全然気にしないという人もいます。

 そこで問題になるのが、束縛を受けている、あるいは被害を被っていると感じている人たちです。日常生活の中でそのような意識を持ち続けていますと、ストレスをため込むことになります。心を病む原因になりかねません。

 仏教では、ことに禅において、心の「自由」とはどういうものなのかの説明に、我々の「肘」にたとえることがあります。肘の動きは一方向で、反対には曲げようと思っても曲がりません。それは、事実として見れば不自由ですが、誰もそれを不自由とは思ってはいません。自分の腕は意のままに動き「自由」で「自在」であります。

 マリオネットの手足は、ぶらぶらで、どちらの方向にも動き、自由自在に動きます。しかし、あくまで人形師の糸で操られる、自分の意志では動くことのできない不自由な身であります。

 人間は、だれもが幼児期・少年期・青年期と、このような操り人形のような時期を経て、独り立ちできる大人となっていくものですが、自身で自分をしっかり支えるためには、一方向にしか動かない膝や肘の存在を知るべきでありましょう。それは不自由なのではなく、自由の証なのです。そして、自ら全部の糸を切るその時が来るまで、しっかり力を蓄えねばなりません。

 ところが、手足はぶらぶらにもかかわらず、自分が上手に歩けないのは、糸を操る者の所為で、その者がいるからだと思いこんでいる人がいます。依存心の強い人にありがちで、自由を求めつつ不自由を呼び込む愚痴の人であります。

(2008/8/18)