諸行無常

 私どもの寺には、2歳と1歳の内猫が2匹と、年齢不詳の外猫が数匹出入りしています。猫の寿命は、犬もほぼ同じ10年から18年くらいだそうです。ただし、それは内猫の話で、外猫の場合、私どもに出入りしている猫の顔ぶれを見ていますと、せいぜい3年から5年ほどのように思われます。また、生まれた子猫が親猫になれるものは、かなり少ないようで、いわゆる生まれたばかりの0歳猫の平均余命となると、極端に低くなると思われます。

 ですから、外猫の世界は、人間世界と比べると、凝縮された短いサイクルの中で、可愛い生命の誕生があり、不憫な病死・事故死があり、また、真剣一途なラブストーリー、あるいは壮絶血みどろの闘争があり、『平家物語』の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、云々」が、まさに目まぐるしく展開されのであります。

 ところで、「諸行無常」は、「この現実の世界のあらゆる事物は、さまざまな因縁によって絶えず変化し続け、決して永遠のものではないということ」であります。これに「諸法無我・涅槃寂静」を加えて三法印といい、仏教の根本思想であります。

 この「諸行無常」と「涅槃寂静」には、『涅槃経』に、釈尊前世の物語として、雪山童子のエピソードが有名であります。

 帝釈天が、修行に励んでいる童子の道心をためすために、羅刹(食人鬼)に変身し、雪山偈の前半二句「諸行無常(作られたものはすべて無常である)是生滅法(生じては滅していくことを本性とする)」を唱えると、それを聞いた童子は、残りの二句「生滅滅已(生滅するものがなくなり)寂滅為楽(静まっていることが安らぎである)」を聞くために、進んでわが身を投げて羅刹に施したといいます。帝釈天は童子の堅固な道心に感じ、これを空中に受けとめ、地上に安置して敬礼したとあります。

 つまり、諸行は無常であることを体得すれば、煩悩の炎が吹き消された悟りの世界(涅槃)、静やかな安らぎの境地(寂静)を獲得できるという教えでありますが、わが国においては、『平家物語』に代表されるように、情緒的・詠歎的・厭世的にとらえられ、どうしても暗いイメージがつきまとっています。といいますのも、かつての平均寿命は、私どもに出入りする外猫ほどではないにしろ、40歳から50歳です。常に社会政情不安や健康不安をかかえ、「死」と隣り合わせで生きなければならない人々にとって、必然、そうなったのでありましょう。

 ところが、二〇〇六年の厚生労働省の資料によりますと、日本人の平均年齢は、女性 85.81歳(世界1位)、男性78歳(世界2位)で、しかも、0歳児が90歳まで生き延びる確率は、男性が21%、女性は44%だといいます。一方で、アフリカのザンビアの平均寿命は40.5歳、ジンバウエは40.9歳ということですから、同じ人間でありながら、国によって、時代によって、2倍もの開きがあるということになります。

 「諸行無常」という仏教真理そのものが変わることはありませんが、こと「寿命」に関しては、現代の日本人にとっては、その感じ方やとらえ方がずいぶん違ってきているのではないかと思われます。

 たとえば、織田信長が好んで舞った『敦盛』、「人間五十年。下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」という、はかなさを感じるよりは、むしろ、60歳の定年を過ぎてから、長い老後をいかに生きるかということに関心が向いているのではないでしょうか。

 しかも、寿命が延びた分、死への恐怖が去ったかというと、そうはいかないのが凡夫の悲しさです。仙崖和尚の狂歌に、『老人六歌仙』というのがあって、第1番は「皺がよる 黒子ができる 腰曲がる 頭は禿げる ひげ白くなる」、第4番目に「聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心は曲がる 欲深くなる」とあります。

 人間は、若さや財産・地位・名誉といった幸せは、そのまま変わらないで欲しいと思う反面、苦しみや恐怖・落胆・失意といった不幸は、早く転じ変わって欲しいと思うものです。かつて、「諸行無常」は、幸せに執着することの虚しさに重点が置かれていましたが、長寿社会である今日にあっては、不幸こそ、久しく続く常なるものでではないという考え方にシフトすべきであると考えます。

(2008/7/18)