諸法無我

 多くの友を戦争で亡くされた方から、「生き残った自分の命は、自分だけのものではない。無駄に生きたのでは申し訳ない」ということを、しみじみと述懐されるのを聞かせていただいたことがあります。第二次世界大戦の犠牲者は、日本だけでも、兵士が二三〇万人、民間人八〇万人といわれ、世界全体では、実に六〇〇〇万人にものぼるといわれています。このことを思うと、確かに、自分自身の今あるこの命、多くの方々の犠牲の上にあるのであって、戦後既に六〇年経ってはいますが、徒や疎かにできるものではありません。

 話は換わりますが、先日、庭のアジサイに、孵ったばかりのカマキリの子が、ひしめき合っていました。一丁前にカマをもたげて、ちょこちょこ歩く姿は、なかなか可愛いものです。しかし、彼らには、幼くして、厳しい現実が待っています。カマキリも同様だと思いますが、以前、スズムシを飼っていたことがあり、共食いをするんですね。そこの環境にあった数になるまで、弱い者が食われていくのです。そして、残った者が、自分たちの種を伝えるという使命を負うのです。カマキリの場合、交尾した後、良い卵を産むためでしょう、雌が雄を食べてしまうそうです。

 ずいぶん残酷で、下等な生物だと思うかもしれません。しかし、よくよく考えてみると、歴史的に見ても、殺人や戦争を繰りかえして止まない人間は、カマキリとあまり変わらないのではないかと思えてきます。恐ろしいことですが人間も生物である限り、遺伝子の中に共食いに相当するプログラムが組み込まれているのかもしれません。普段は休止しているプログラムですが、何かの条件がそろったとき、突然動きだすのでしょう、「まさかあの人が」ということをよく耳にいたします。ですから、我が身とて、縁があれば殺人さえも犯しうる存在であることを認識すべきであります。

 それは人間の悲しい性といえましょうが、だからこそ、そこに宗教の必要性があるのだと思います。仏教の場合、信者が守るべき戒律『五戒』の第一番目に「殺すなかれ」があるのは、そういった意味あってのことと思われます。

 最近、自殺願望の若者による無差別殺人が相次いでいます。「誰でもよかった」といって殺されたら、たまったものではありません。ただ、加害者には、当然、罪の償いの意識を持ってもらわねばなりませんが、被害者の方々には、非業の最期を遂げたという無念の思いがあるには違いありませんが、「他の人たちを生かすために、命の布施をしたのだ」と、考えていただくことはできますまいか。憤り・恨みを布施の心へと昇華させるのです。そして、被害を免れた我々としては「ひょっとして、自分であったかもしれぬ事態、よくぞ代わって命の布施をして下さった」と、手を合わせるべきではないでしょうか。

 私どもは、カマキリ同様、多くの同胞の命の布施を受けて生かされています。先の大戦の何千万もの犠牲者しかり、事故・犯罪による犠牲者しかり、たまたま自分は、多くの先逝く方々の命の布施をいただいて、選ばれて生かされているのだとの自覚が大切です。

 さらにいうならば、我々人間は、毎日毎日の食事に、幾多の動植物の命の布施を受けて生きています。食前の「いただきます」、食後の「ごちそうさま」には、本来重い意味が込められているのです。ですから、自分の命は自分のものと思いがちですが、多くの命の布施に支えられてある命であって、けして自分のものとはいえないのです。

 私どもは、自分ひとりで大きく、偉くなったような気でいるものです。今の自分があるということは、直接的、あるいは間接的に、目に見えるもの、見えないもの、さまざまな縁、さまざまな恩をいただいていればこそであります。

 『法句経』の二七九番に

 「すべての法は
 わがものにはあらず」
 と かくのごとく
 智慧もて知らば
 彼は そのくるしみを厭うべし
 これ清浄に入るの道なり

と、あります。

 これを「諸法無我」の教えといいます。すべてのものは縁によって成り立っており、しかも一つの縁だけではなく、無数の縁によって自分は生かされているのだという自覚の大切さ説いています。この智慧を持つことで、悩み多き娑婆世界の苦しみから解放されるのです。それは、慈悲心、菩薩の心を授かるということであります。

(2008/6/18)