諸法実相

 今更いうのもなんですが、仏教は宗教であります。では、その宗教とは何かというと、その定義付けがなかなか難しいのであります。仏教・キリスト教・イスラム教のように民族を超えて信仰されている世界宗教もあれば、神道のように日本民族だけに信仰されている民族宗教もあり、宗教個々の相違、しかも、、人によっても受け止め方、接し方がずいぶん違うからです。

 さしあたっては、「神・仏など超越的存在や、聖なるものを信じることによって、安心・幸福などを得ようとすること。また、そのための教え」と理解していただくのが、一応無難ではなかろうかと思います。

 ところが、近年、世界的な傾向ともいわれていますが、科学の進展に伴い、これまで社会全般にわたって占めていた宗教の広範な分野が、次第に狭められて来ています。特に、先の大戦以降の日本の場合、宗教は非科学的であるから信ずるに値しないとか、ただ神仏を拝めば、ご利益が転がり込んでくる「たなぼた方式」や、賽銭を投げ込めば幸福がコロンと出てくる「自動販売機方式」といった、安直な接し方でしか宗教との関わりを持たない人が多くなり、苦難、挫折といった場面に出会ってしまうと、再起不能といった事態になりかねません。不登校、引きこもり、無差別殺人といった由々しき社会現象も、このこととけして無関係ではないはずです。

 仏教は「仏法」、つまり、釈尊の悟ったこの世の法則(ダルマ)を体得することによって、日々、四苦八苦する自分を解放しようとするものです。現代においても、この「仏法」こそが求められると思うのです。ただ、、一口に「仏法」といいましても、今日学ぼうとしたとき、そのあまりの経典、解説書の多さに辟易して、頓挫してしまう人も多いようです。

 ある方が、「仏教を学ぶことは、砂漠を旅するほどの覚悟が必要だ」といわれました。確かに、言い得て妙でありますが、さまよい歩く中、ところどころ巡り会うオアシスにこそ、その醍醐味があるともいえましょう。

 では、そのオアシスに相当する「仏法」に、「縁起」「空」「諸法無我」「諸行無常」「諸法実相」などといった教義があります。これらは、それぞれが別々なものではなく、全体が分からないと個々も分からないという難しさはありますが、今回は、「諸法実相」についてお話しさせていただきます。

 簡単に申せば、「すべて存在するものは、存在する限りにおいては存在する意味がある」ということです。たとえば、毒も使いようによっては薬になります。ですから、毒だから悪い、薬だから良い、あるいは、敵だから悪い、味方だから良いという分別・差別をやめて、あるがままの姿から、真実なるもの、すなわち「仏法」を見極めようという態度が、仏教者の有り様でなくてはならないというのです。

 ここで、鈴木大拙(1870〜1966)という、卓抜たる仏教学者を紹介させていただきます。西洋思想と東洋思想に精通され、欧米に仏教(特に禅)を伝え、欧米の思想界に少なからず影響を与えた方であります。日本語はもちろん英語での著作・講演録がたくさんあり、その中から私流の要約になりますが、引用させていただきます。

 『旧約聖書』の「創世記」第一章の冒頭です。……

 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良し(good)とされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。   (中略)

 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった(very good)。夕となり、また朝となった。第六日である。 ……

 神は六日かかって天地を創造されたが、出来上がった世界を一瞥されて、「良し(good)」、「はなはだ良し(very good)」といわれた。

 ところが、その世界は核ミサイルのボタンを押せば一瞬に滅びてしまうかもしれない、あるいは、煩悩燃えさかる衆生が充ち満ちている、そういう一面をもった世界でもある。それでいて、「良し(good)」といわれた、その「good」の意味を考えるのが仏教である。さらに、「光あれ」といわぬその先の神を捕まえる、それが仏教の極意である。

 以上、胸がすくほどに「諸法実相」の教え、さらには「空」の教えにもつながる含蓄ある示唆がいただけるのではないでしょうか。

(2008/5/18)