小楽と大楽

 世界四大聖人といわれる方々には、不思議と一つの共通点があります。釈尊は、生後一週間で、母の摩耶と死別されています。イエス・キリストの母はマリア、父はヨセフと伝承されますが、実父ではなく養父です。孔子も、幼くして両親を失っておられます。ムハンマド(マホメット)も、父は彼の誕生する数ヶ月前に死に、母も幼い頃に亡くされています。

 また、我が浄土宗祖法然上人も、九歳のとき、夜討によって父を失っておられ、曹洞宗祖道元禅師も幼くして両親を亡くされているようです。やはり、そこには、失った親を超越した大いなる「法」「道理」「神」を希求せずにはいられなかった、凡人では計りがたい何かがあったのでありますまいか。

 『阿育王経』に、面白い話が載っています。

 両親にとても可愛がられていた一人の息子が、発心をして出家しようと、ウバキクタ聖者の許に、弟子入りを申し出ました。聖者は、彼が、愛の絆にほだされていることを見取り、出家を許すも一計を案じることにしました。

 ひとまず、家に帰ることになった息子は、「家に帰れば、両親は私を離してはくれまい。出家が果たせなくなりはしまいか…」などと、思案しつつあたりを見ると、古びた神廟があったので、ここで一夜の宿をとることにしました。

 聖者は、神通力でもって二人の羅刹鬼をこの社に遣わしました。

 夜が、深々と更けた頃、ふと、異様な物音に目覚めると、社の古い扉が開いて、二人の羅刹鬼が入ってきました。第一の鬼は、死人を担いでおり、第二の鬼は空身であります。しばらくすると、大声でけんかを始めました。

 「この死人は、おれが担いできたものだから、おれのものだ。」

 「馬鹿をいうな。これはおれのものだ。」

と、互いに譲らず、上を下への大げんかとなりましたが、互角の力で勝負がつきません。すると、にわかにけんかを止めて、縮み上がって隅の方で見ていた彼の前にやってきて、すごい形相で詰問しました。

 「おい、この死人を担いできたのは誰だか、お前は見ていたな。さあ、どっちだ。さあ、いえ。」

 彼は、「もし、事実をいえば、第二の鬼は私を殺すだろう。もし、うそをいえば、第一の鬼が殺すであろう。どのみち、死は免れまい…」と考え、覚悟を決め答えました。

 「第一の人が持ってきた。」

 かく聞くやいなや、第二の鬼は烈火のごとく憤り、彼の肘を引き抜きました。そして、それを食べようとしました。第一の鬼は、直ちに死人の肘を抜き取り、それを彼に付けて、元通りにしました。間髪入れず、第二の鬼は、彼の両足を引き抜きました。すると、第一の鬼が、またも死人の両足を抜いて、彼の足に挿げ替えました。

 そうこうするうち、鬼たちは、どうしたわけかけんかを止め、引き抜いた彼の両足を、むしゃむしゃ食い始め、明け方頃には、共に食い尽くして、社から出て行きました。

 ここにおいて、彼は、父母に対して、世俗に対しての愛着の心が全く失せ、二日を経て、聖者のところに戻り出家し、精進修行して、阿羅漢の位を得たといいます。……

 さて、仏教では、法を知り得たときの喜びを「法悦」といい、それは信心による大きな利益であります。このようなことは、他の宗教でも同様なことがいえましょう。ただ、そのような喜びを得ることは、聖人の方々のような境遇や、先の話の縮み上がるような体験なくしては無理ということであったとしたら、せいぜい、金と健康、人並みの幸せに満足を求めようとしている多くの者にとっては、無縁なものといわざるを得ません。
 しかし、もし、その片鱗だけでも法悦に預かりたい、信心を得たいと思うならば、どうすればよいのでしょうか。

 ささやかなる
 たのしみを棄てて
 若し 大きなる
 たのしみを得んとせば
 かしこき人は
 彼岸の大楽をのぞみて
 小さきたのしみを
 すてさるべし
         『法句経』二九〇番

 ここで、「小楽」というのは「酒色財名」の私欲を満たすことであり、「大楽」とは「願」をもつことであります。それは、善行を積むことであります。しかもさりげなく。また、他人の善行を助けること(随喜)であります。先ずは、真似事でもよい、始めることであります。

(2008/3/18)