以和為貴(わをもってとうとしとなす)

 先日、朝食をしながら、CBCテレビ、みのもんた「朝ズバッ!」を見ていましたら、近年、近親者による殺人事件が増加傾向にあるということを指摘していました。たしかに、毎日のように、親が子を、子が親を、夫が妻を、妻が夫を、また、兄弟間、親戚間でと、理由は様々ですが、よくもこんなに立て続きに起こるものだとの印象を、皆様も多分お持ちではないでしょうか。

 そこでネットで調べてみましたら、昨年の記事(朝日新聞)ではありますが……、

 警察庁によると、遺体をバラバラにする死体損壊や死体遺棄の件数は 年から 年まで計 〜 件程度で横ばいだ。一方、親子や夫婦、きょうだい間の殺人事件や傷害事件をみると、同じ 年間で増加傾向にある。

 たとえば、夫婦(内縁関係を含む)間の殺人は4割増の 件、傷害は4倍余の 件だった。きょうだい間の殺人も 件で3割増。傷害は 倍の 件に上った。

 こうした増加の一因は、家族間のトラブルでも被害を警察に届け出るように社会意識が変化した結果だと警察庁はみている。ただ、傷害の増え方が急なうえ、殺人のように以前から家庭内では隠せなかった事件も増えており、「単に意識の変容だけでは説明がつかない。家族間の人間関係の悪化がうかがえる」(同庁幹部)という……。

 近親者による殺人や傷害事件は、経済的困窮や病人・老人介護疲れからくる心中のようなものもあり、はなはだ悲惨です。なかでも、怨恨によるものは、他人よりも恨みも倍増するのでしょうか、その結末は、酷く哀れであります。

 仏教でいうところの「四苦八苦」の中に、憎たらしい人と会わなければならない苦しみ、「怨憎会苦」というのがあります。これは、おそらく、誰しもが経験することで、隣近所、学校や会社の中に、肌の合わない人、しいては、居なければよいがと思うような人が、一人や二人いるものです。そのストレスや、かなりのものです。まして、身内の中、特に、家庭内にいたとしたら、それはたまったものではありません。

 ですから、そうならないために、恨みを残さないようにしなくてはなりません。知恵のある人というのは、恨みをなくすまでいかなくとも、軽減出来る人のことをいいます。いつまでも愚痴って、恨みをため込む人は、「知」にやまいだれを付けると「痴」になるように、知恵が病気にかかっているのです。愚痴が出ぬよう、治療せねばなりません。ここは、あの聖徳太子に、知恵を授けていただくことにいたしましょう。

 『十七条憲法』の冒頭の「以和為貴」という一節は、皆様よくご存じかと思いますが、第一条全文の内容は、次のようになっています。

一、うちとけ和らぐことを大事にし、背き逆らうことがないよう心がけよ。人はみな徒党を組み、道理をわきまえる者は少ない。だから、ある者は君主や親にしたがわず、隣近所と仲違いをおこす。しかし、上下の者が仲よくし、執われの心をはなれて話し合うことができるならば、道理が自然と通り、何事も成就しないことはない。

 学校教育において、「自我の確立」を目標にかかげますが、実は、これだけでは具合が悪いのであります。時に、「我」は捨てなくてはならないものであることを、教えてもらわないと困るのであります。いつも、強い我が弱い我を押さえつける構図であっては、「和」は生まれません。

 日本を意味する「大和」「和様」の「和」には、仏教の「諸法無我」の教え、太子の「以和為貴」の精神が込められているに違いありません。

 次は、第十条の全文です。 

十、忿怒の心を絶ち、瞋恚を棄てて、人と意見の違うことを怒るな。人はみな心があり、心はそれぞれ執着がある。ある人が是認すれば自分は否認する、自分が是認すれば他人が否認する。自分は聖人ではないし、他人は愚者ではない。ともに(欠点の多い)凡夫にすぎないのである。善悪の理屈は誰がよく定めることができよう。お互いに賢く愚かであることは、鐶(金属製の輪)の端が無いようなものである。だから他人が瞋るといっても、かえって自分の過ちを恐れなさい。自分ひとり会得していると思っても、衆議に従って同調して行いなさい。

 つまり、「相共に賢愚なること鐶の端なきがごとし」とあるように、我々は共に、欠点だらけの不完全な存在、凡夫であるという意識を持つことが肝要なのであります。

(2008/01/18)