諸悪莫作

 最近、引ったくりや詐欺、さらには凶悪殺人事件と、悪いニュースを聞くことがなんと多いことでしょう。原因はいろいろ考えられましょうが、道徳心が希薄になってきているということは、多くの方が肌で感じておられるのではないでしょうか。そこで、仏教道徳について考えてみることにいたします。

 『法句経』一八三(友松圓諦訳)に

 ありとある
 悪を作さず
 善きことは
 身をもって行い
 おのれのこころを
 きよめんこそ
 諸仏のみ教えなり

とあります。

 漢訳されたものとして

 諸悪莫作 衆善奉行
 自浄其意 是諸仏教

があります。この偈文は、「七仏通戒偈」といわれ、過去七仏(釈尊以前に現れたとされる六人の仏たちを併せていう)が共通して保ったといわれる偈で、いわば仏教思想を一偈に要約したものとして、今日でも広く誦唱されています。

 道元禅師が『正法眼蔵』第三十一に、この「諸悪莫作」について述べられていますが、興味深いエピソードを引用されています。

 中国の詩人で有名な白楽天が、杭州の長官であったとき、山林の樹の上で仙人のような生活をしている道林禅師を訪ねた。早速、禅師に「仏教の根本の教えとは何か」と質問した。道林禅師は、即座に「諸悪莫作 衆善奉行」、すなわち、「悪いことをするな、善いことをせよ」と答えたのだった。

 あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて、「そんなことは三才の童子でも知っていることではありませんか、馬鹿にしないでください」と反発したところ、「三才の童子でも言うことはできるであろうが、八十の老人でさえ行うことは難しい」と答えたという……。

 道元禅師という方は、「自分はわざわざ海を渡って中国(宋の時代)で学んできたけれども、眼横鼻直(眼が横に鼻が縦についている)、すなわち「あたりまえ」ということが人間のあり方だと悟って、だから他には一切何も持たずに手ぶらで帰ってきた」とおっしゃっています。そうしてみると、仏教・仏法は、この「あたりまえ」がキーポイントになるようです。

 仏教での悪は悪業のことで、身・口・意の三業に区別して「十悪」の場合、次のように示されます。

・身体による悪しき行為(身業)

 @殺生=生き物をみだりに殺す
 A偸盗=他人のものを盗む
 B邪淫=邪な性交をする

・言語による悪しき行為(口業)

 C悪口=悪口、人をののしる
 D両舌=二枚舌、人をあざむく
 E綺語=駄弁を弄する
 F妄語=嘘、偽りをいう

・心意による悪しき行為(意業)

 G慳貪=貪り、物惜しみする
 H瞋恚=怒り、憎む
 I邪見=邪悪な誤った見解

 以上ですが、半分の「五悪」の場合は、@殺生、A偸盗、B邪淫、C妄語、D飲酒となります。これを戒めたものを「五戒」といいます。在俗信者向けの戒として、原始仏教時代に、すでに成立していたとされます。

 「十悪」を戒めたものは「十善戒」といい、大乗仏教において、基本的なあるべき規範を示すもので、これを仏教道徳と考えてよいものと思います。ちなみに、この中に、「飲酒」が含まれていないのは、それ自体が悪として戒められたものではなく、過ぎるといけないということで戒められたものだからと考えられます。

 さて、今一度、「諸悪莫作 衆善奉行」に振り返ってみることにします。

 普通一般的には、「悪いことをするな、善いことをせよ」と、命令形で受け取りますが、仏道修行することにより、「悪はなされず、善はなされ」となり、さらには、「悪いことはしようにもできない、善を為さずにはおられない」となってくるものだと、道元禅師は指摘されています。

 ただ、「不殺生戒」一つをとっても、他の命を間接的とはいえ、殺さずには生きていけないのが我々です。懺悔の心を忘れず、西山上人の「はげむも欣ばし、正行増進の故に、はげまざるも喜ばし、正因円満の故に」を糧に、南無阿弥陀仏と、「あたりまえ」のように「諸悪莫作 衆善奉行」が滲み出るような生き方を心がけたいものです。それを、菩薩道というのです。 

(2007/7/18)