大人と小人
釈尊が生れた時、七歩進んで、天と地を指差し、「天上天下唯我独尊」と言ったといわれます。
七歩というのは、六歩(六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)より一歩多い、つまり、輪廻する迷いの世界を超越したということを表し、全宇宙において、自分より尊い者はないと宣言されたものだと、普通には解されています。
ただ、これは、あくまでお釈迦さまのことで、自分とは関係のないことだとして、または、現実離れしたありえないことだとして、うっちゃってしまったのではいけません。仏教は、本来、我、自分が仏となり、迷いの苦しみを解放するための教えですから、自分のこととして考えてみることが大切であります。
先年亡くなられましたが、「自己」の追求を生涯かけて極められた禅僧、内山興正老師が、次のようにおっしゃっておられます。
私どもは、共通の世界に生きていると思っているが、実はそうではない。私が生まれてはじめて私の前に世界があり、そして死んだら世界はなくなる。どこまでも自己は自己の世界を持って生まれてきて、自己の世界を持って生き、自己の世界を持って死んでいく。
そして、普通私どもが考える自己は、1/一切 という小さな自己でしかないが、自己=1 であるということは、1/1=一切/一切=法=仏 ということであり、その大きな自己に、限りなく近づこうとすることが、仏道修行なのである。仏教の根本である「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依することなかれ」は、そのことをいうのである。「他に依止(依存)する者は動揺す」というのがお釈迦さまの結論である。だから、だれもが、「天上天下唯我独尊」でなくてはならないのだ。
大きな自己を考える上においては、「生存」と「生命」とを、はっきり区別しなくてはならない。
「生存」は、死を切り捨てて、他との兼ね合いだけで生きている世界をいう。「生存呆け」の人生は、「金と健康」程度のものに価値を置いているものだから、「豊かな生活、貧しい人生」、死ぬ間際には、その大事な「金」も「健康」も失わなくてはならないという落し穴が待っているだけである。
一方、「生命」を基盤にするということは、見まい見まいと蓋をしている、死というものの蓋を取り払い、生と死を一つに見渡す生き方をすることをいうのである。
生死
手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかにばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかにばら撒かれるのだ
生死ぐるみの「生命」という大地に、どっかり足をつけて生きることによって、はじめてそこに本当の意味の生命力という、頼もしい力が湧いてくるのである。
さらに、大きな自己を考える上で、「仏」を、特別な存在と思う必要はない。「諸仏は是れ大人なり」、つまり、「大人になれ」ということなのである。
大人の反対は小人である。小人は、さしあたり自分の内に起ってくる我欲、渇愛だけで生きている。それで、「腹減った」「あれ買って」と愚図っている。また、いつも人が相手になってくれる、遊んでくれると思っている。そして、人が誉めてくれなければ愚図る。これでは、いかにも小人だ。
「大人」とは、「自己が自己として片付いて、愚図らない」ということである。たとえ、老人になって、寝たきりになって、糞まみれになっても、そのオレがオレのすべて、それがオレの天地なのだ。これがオレの最高価値なのだ。何のため、誰のためなどといわないで、私の最高価値、私の天地を大事にして、愚図らないで生きる、これが狙いにならなければいけない……。
以上、老師の教え、自己=一切/一切 、「唯我独尊」といっても、ひとりよがりのことではありません。西山上人の御歌、「南無阿弥陀ほとけの御名と思いしに唱うる人の姿なりけり」とあるとおりであります。(2007/6/18)