自愛

 近頃、自筆の手紙をいただくことが少なくなりました。だからでしょうか、たまにいただく自筆の手紙の末尾に、「ご自愛ください」の一文があったりすると、心がほっかりと和みます。

 ただ、この「自愛」という言葉、実際にどうすればよいのかとなると、はたと考え込んでしまいます。といいますのも、言葉の意味としては、「自分の健康状態に気をつける」ということでしょうが、健康を害する場合、ほとんどは、「自愛」の仕方が分かっていないためではないかと思われるからです。

 わたしの場合でも、若い頃はよく風邪をひきましたし、お腹をこわしたことも度々ありましたが、この頃、六十年近く自分の体と付き合ってきて、ようやく、どうしたら風邪をひき、どうするとお腹をこわすかということが、大体分かるようになってきました。また、体調を崩しても、どうすれば回復が早いかも、およそのことは分かるようになってきました。つまり、「自愛」するためには、自分の体のことをある程度知ることが必要で、それには、それなりの年齢を重ねなくてはならないようです。

 さらに、健康を害する要因として、対人関係からくるストレスも見逃せません。肩こりに悩んでいる人は多いですが、ほとんどは、このストレスからくるものと思われます。このストレスの厄介なことは、それが他人であれ、家族であれ、相手があることですから、「自愛」しようにも、これが難しいのです。

 イタリアに留学した日本人学生が、経費を浮かすために、アメリカ人と共同で部屋を借りました。二人は話し合いで生活のルールを決めました。夜の門限も決めました。

 ところが、アメリカ人はデートのとき、月に一度くらい門限を破ります。それを日本人は、我慢して黙っていました。

 だが、ある日、日本人が門限に遅れました。すると、アメリカ人は怒りました。それで、日本人は謝りました。

 それから数日後、再び日本人が門限を破りました。アメリカ人は、そのとき、「お前のようなエゴイストと一緒に住めない!」と激怒しました。

 そこまで言われて日本人は、これまでのことをまくしたてました。「お前のほうが数多く門限を破っているではないか! 自分を棚に上げて、俺ばかり悪者するとは……」と、日本人は大声を出しました。

 それを聞いて、アメリカ人はびっくりして言いました。

 「いままで俺が門限に遅れても、お前は文句を言わなかった。だからお前は、俺の遅刻を気にしていないのだと思っていた。気にしていたのなら、なぜそのときに言ってくれなかったのか……」と。

 つまり、アメリカ人の方は、自分は許されているのだから門限を破っていないと考え、一方の日本人は、アメリカ人が門限を破ったことを記憶していて、自分の違反は、これで帳消しになると考えたというわけです。

 多分、この日本人学生は、ストレスを溜め込んで、肩こりに悩まされていたのではないでしょうか。これに似たような状況は、家庭での嫁姑の関係、会社での人間関係の中などで、日常、よく起こっていることではないでしょうか。

 日本人の場合、小さなトラブルを避けようと、取り敢えずは、自分が我慢すれば済むことであれば、我慢しておこうと考える人が多いようです。そうして、ストレスをどんどん溜め込んでしまうわけです。

 ストレスは、核燃料と同じで、うまく制御して利用すれば、大きなエネルギーとして利用できますが、溜め込んで溜め込んで、臨界状態に達してしまうと制御不能になり、自身の健康を害したり、対人関係の破綻を招いたりします。

 「堪忍袋は大きく」とか「ならぬ堪忍するが堪忍(もうこれ以上は我慢できない、そこを我慢するのが真の我慢強さである)」とかいいますが、我慢しないで済むのであれば、それに越したことはありません。こちらが、いくら我慢に我慢を重ねていても、相手には全然伝わっていないということが、往々にしてあるものです。ですから、自分の意思を伝えようという労力を惜しんではなりません。相互理解の手立てを、先ず考えるべきであります。

 「自愛」は「利己(エゴ)」とは違います。自分の健康維持は、自分自身の中だけで解決できるものもありますが、「他愛」なくしては叶わぬものであることを認識しなくてはなりません。

(2007/3/18)