粋な布施

 釈迦牟尼が、前世にシヴィという名の王であったころ、諸々の天人たちの主である帝釈天(インドラ)は、ヴィシュヴァカルマンという変化自在の天人とで、シヴィを試すことにしました。

 ヴィシュヴァカルマンは、鳩へと身を変じて王の元へと向かい、インドラも鷹となってこれを追いかけました。シヴィ王は、恐れに震え必死に助けを求めてくる鳩を見て、当然のこと、この可哀想な鳥を保護しました。そこに鷹がやって来て王にこう要求しました。

 「王よ、それは私の獲物です。その鳩を私にお渡しなさい。」

 シヴィ王は考えた揚げ句、こう決心しました。

 「この体には常に老いと病と死がまとわりついている。遠からず必ずや朽ち果ててしまうだろう。この体をそなたに与えようではないか。」

 そこで王は刀を持ってこさせて、自らの太ももの肉をえぐり取りました。

 「これをおまえに与えよう。」

 そう告げる王に、鷹はさらに条件を付けました。

 「王よ、その肉には満足だが、公正をきすために、その鳩と同じ目方でなくてはなりません。」

 王は秤を持ってこさせると、鳩と自らの肉を天秤に掛けました。しかし意外にも、針は鳩の方に傾きました。そこで王はさらに脹ら脛の肉を切り取って秤にかけますが、それでもまだ足りません。それどころか不思議なことに、王の肉はますます軽くなり、鳩の体はますます重くなっていくのです。王は、自分の体すべてを秤にかけようと、血に濡れた手で秤にのぼろうとしました。しかし肉もなく筋も断たれた体のこと、身を支えることができず、息も絶え絶えに秤に倒れ込んでしまいました。

 これを見たインドラは感嘆して言いました。

 「このように試してみたが、王は全く我が身を惜しまなかった。まさにこの人こそ真の菩薩だ。」

 それを聞いたヴィシュヴァカルマンは、インドラの神通力でシヴィ王を元の体に戻すよう懇願しましたが、インドラはこう言いました。

 「私の力は必要ない。この王自らの誠の請願によって、体は元通りになるであろう。」

 事実、シヴィ王の体は元通りになり、天も人も皆これを見て歓喜しました。そしてこれを見届け、真実の菩薩を見出した二人の天人は、天上へと帰っていきました。

   ……………………

 このお話は、『ジャータカ』という、古代インドの仏教説話集にあります。これは菩薩行の中で、崇高、かつ、もっとも困難なものとされる捨身(他の人あるいは生き物を救うためにみずからの生命をなげうつこと)について説かれています。類例としては、両眼を布施する話や、『金光明経』の飢えたトラに身を投げ出して、無上の涅槃を求めた捨身飼虎の話などがあります。現代においては、臓器移植の際のドナー(臓器提供者)に相通ずるものがあるように思います。なかなか出来るものではありません。

 では、凡人にも出来る布施はないものだろうかと探していましたら……、ありました。

 山本周五郎の短編小説『寒橋』の一節に、

 「――女の髪化粧というものは世の中の飾りといってもいいくらいで、うす汚ない饐えたような裏店でも、きれいに髪化粧をした女がとおれば眼のたのしみになる、……いっときその饐えたような裏店が華やいでみえる、……つまり春になって花が咲くように、世の中の飾りの一つになるんだ、……化粧をするならそのくらいの気持ちでするがいい、おまえのは自分本位で、そういう気持ちはなおさなければいけない。」
と、あります。これは、父親「伊兵衛」が、早くに母親を亡くした娘「お孝」に、化粧をするときの心構えについて言い聞かせている件です。

 一時期流行った「ガン黒」・「厚底靴」・「茶髪」、最近では、けばけばしい「ネイルアート」、さらには、ブランド志向のファッション等、どれもが「伊兵衛」が指摘する自分本位の化粧や着飾りで、傍からは見苦しいものです。

 化粧や着飾り、和顔愛語といった、気遣いや立ち振る舞いが、布施の仏道修行と考えれば、仏教が随分身近なものになるのではないでしょうか。それは、「粋」にも通じるものだと思います。

(2006/6/18)