訪問者

 先日、消え入りそうな声で、若い女性から、電話がかかってきました。なんでも、自分も主人も職場でいじめにあっていて、相談に乗って欲しいというのです。

 これまでにも、インターネットにホームページを開設してから、私どもの寺を訪ねてこられるということが何度かあり、その日は、法務がかなり積んでいましたが、電話の声があまりに弱々しく心配されましたので、なんとか都合をつけ、取りあえず、寺に来るようにいいました。

 約束の時間の五分ほど前、歩いて来るといっていたので、寺が工事中のこともあって分かりづらかろうと思い、外に出て待っていました。ところが、時間を過ぎてもそれらしき姿はいっこうに見えません。それで、今回はもう来ないかもしれないと思い、ひとまず寺の中に入ることにしました。

 それが、不思議なタイミングで、私が中に入り、一呼吸おいた頃合い、玄関でチャイムを鳴らす男女二人の姿がありました。

 それで、本堂に上がってもらうと、電話とは違って、男性の方が一気に淀みなく喋り始めました。話の概要は、こうであります。

 自分は帽子を被っているが、ストレスからくる円形脱毛症のため無礼を許して欲しい。自分たちには両親がなく、自分は祖母に育てられ、妻は孤児院で育った。実は、自分たちはこれから死のうと考えている。これまでいろいろなお寺にも相談をしたが、「人間、死ぬ気でやれば何でもできる」といわれるだけで、冷たいものだった。しかし、今日このように相談に乗ってもらえるお寺に巡り逢え、お寺に対して良い印象を持って死ねることは幸せなことである。

 住むところがないので、新聞の求人広告を見て、寮付きのところに就職したものの、そこは蛸部屋のようなところで、十二万円の給料から十一万円親方が天引きをして、一万円でやっていかなければならない。だから、食事はほとんどカップラーメンで、悪いこととは知りながら、ときどき、近くの畑から野菜を失敬して食べているような状態である。

 だから、子供ができてもとても育ててはいけないので、最初の子は堕さざるを得なかった。ところが、今回また妻に子が宿り、現在四ヶ月である。親方は、「堕せ」と妻を責め、殴る蹴るの暴行を受けている。

 自分は以前、横着な道に入っていたことがあり、そのころ世話になった人が六番町にいるので、今回その人を頼ってきたのだが、「親方の元に返れ」といわれてしまった。自分としては、戻るつもりはない。死ぬ決心をした。

 と、これまで、おそらく何度も繰り返し話してきたのでありましょう、ドラマ仕立てになっています。しかし、あまりに出来すぎた話ですし、暴力を受けているといっても、それらしい様子は見あたりません。しかも、男性は、塗装工だというのですが、見る限り、働いている手ではありません。

 私が先ず彼らに聞いたのは、どうして当山を訪ねてきたかということでした。それは、ホームページからではなく電話帳を調べてきたということでした。ということは、彼らにしてみたら、どこの寺でもよかったわけです。また、最初の現れ方からして、第一印象があまり良くありませんでしたので、こちらも、彼らの話を冷静に聞くことができました。だからでしょうか、クライマックスである「死ぬ決心をした」が、今ひとつ演じきれず、涙が出てこないのです。

 そこで、次のように話して帰っていただくことにしました。

 二人とも親がないというが、本当に親のいない者はない。しかも、今は、自分たちが親になろうとしている。命というものをよく考えるように。あなた達に、「生きろ」とも「死ね」ともいわない。ただ、堕してしまった子に対しては、「すまなかった」という懺悔の心を持つように。今から、水子の供養をしてあげるから、仏様に手を合わせるように。 (読経)

 孫悟空が持っている棒を如意棒というが、思うがままになることを「如意」という。しかし、世の中は、思い通りにならない「不如意」なものである。そこを生きていくのが人間である、と。

 帰り際、茶菓子を差し出したら、「乞食ではない」との言。確かに、それでも、人の心の真意は量りがたいものです。次の日、若い男女の心中のニュースが少しは気になりました。はたして、これで良かったのかどうか……。

(2006/5/18)