最期の一言 (日本編)


 人にはそれぞれの個性がありますから、その死に方もまたそれぞれであります。何時か迎えねばならないその日のために、先人達の死に様を知っておくのは、無駄なことではないと思われます。

◆一休(1394〜1481)
 室町時代の臨済宗の僧。当時の禅宗界をしんらつに風刺して、人間的な禅風を目指した。文明13年11月、寒さや高熱がおそう「ぎやく」にかかり、21日朝に没した。死ぬにあたって彼は「死にとうない」といって、座ったまま眠るように死んだという。87歳。

◆良寛(1758〜1831)
 江戸後期の曹洞宗の僧。諸国行脚の後、郷里越後に住んだ。文政13年7月、激しい下痢を患う。症状は夏から秋にかけ一進一退した。そのときの反古のなかに「ぬばたまの、よるはすがらに、糞まりあかし、あからひく、昼は厠に、走り敢へなくに」の歌がある。大晦日、介抱していた貞心尼は「生き死にの境離れて住む身にも、通らぬ別れのあるぞかなしき」と口ずさむと、良寛は「裏を見せ表を見せて散るもみじ」とつぶやいた。明けて1月6日夕、眠るが如く去った。73歳。

◆葛飾北斎(1760〜1849)
 江戸時代後期の浮世絵師。生涯に93回引越しをし、酒も煙草ものまずただひたすら描き続けた。嘉永2年4月風邪をひき、枕頭には娘や弟子たちが集まった。ここで彼は「人魂ゆく気散じや夏の原」と辞世をよみ、「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、本当の絵師になられるのだが」とつぶやいて息を引き取った。 歳であった。

◆二宮尊徳(1787〜1856)
 江戸後期の農政家。通称金次郎。安政3年10月20日、今市の居宅で多くの崇拝者に囲まれ、「葬るに分を越ゆるなかれ、墓や碑を立てるなかれ、ただ土を盛り、そのわきに松か杉一本を植えれば足る」といって息を引き取った。69歳。

◆樋口一葉(1872〜1896)
 明治中期の小説家。「たけくらべ」「にごりえ」を発表。明治29年11月3日、教師の馬場が一葉を見舞い「冬休みにまた上京しますから、そのときまた参りましょう」といった、すると一葉は苦しそうな声で「その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」と切れ切れに言った。それから20日後、彼女は死んだ。24歳であった。

◆岸田劉生(1891〜1929)
 大正時代の洋画家。娘をモデルとした「麗子像」は有名。昭和4年12月14日夜、劉生は徳山の料亭で銀塀風に舞子を描いた。そのあと筆を持ったまま脇息にもたれ「気持が悪い」といった。発病後2日して、医師から慢性腎臓炎による視力障害と診断された。18日、彼は「暗い」「目が見えない」と叫び、以後頻に「バカヤロー」を繰り返した。12月20日。吐血して死亡。38歳。

◆北原白秋(1885〜1942)
 詩人、歌人。詩集『邪宗門』がある。白秋は昭和12年、糖尿病と腎臓病による眼底出血で、原稿が読めなくなる。昭和16年の末、歩行困難、呼吸困難になり、翌年2月入院。4月より自宅療養することとなる。11月2日の午後4時頃、白秋は「なに、負けるものか、負けないぞ」とうめいた。長男が窓を開くと「ああ蘇った。隆太郎、今日は何日か。 月2日か。新生だ、新生だ。この日をお前達よく覚えておおき。私の輝かしい記念日だ。新しい出発だ。窓をもう少しお開け。ああ、素晴らしい」。しかし最期の発作では「一度安心したせいか、もう打ち勝つ気力もない。駄目だ、駄目だよ」とあえぐようにつぶやいた。57歳。

◆大宅壮一(1900〜1970)
 政治・社会時評家。昭和45年10月26日、山中湖の山荘で息苦しさを訴え、急遽帰京して入院。11月18日、昏睡状態から覚めた彼は「ああ、腹が減った。何か食うものをよこせ」とどなった。11月22日午前3時4分、一度心臓が停止したが、3時43分に永遠に止まった。死ぬ直前に妻に「おい、だっこ」といったという。 歳。

◆徳川夢声(1894〜1971)
 話術家。昭和46年7月22日、腎孟炎で入院。7月末、彼は妻に爪を切ってもらうと、その手を目の先にもっていってじっと眺めた。妻は病人が自分の手を見詰めるようになると、まもなく死ぬという話を思い出して「疲れますよ」といってその手を下ろした。3日後の8月1日午後零時20分、妻に「おい、いい夫婦だったなあ」といって死亡。77歳。

(2006/2/18)