安心(あんじん)という安心

 一月十五日付の中日新聞に、今日の日本仏教学界の重鎮、文化功労者でもあられる前田惠學愛知学院大名誉教授が、「仏教とは何か」という問いに対して、「仏教とは、釈尊を開祖とし、涅槃ないし、悟りと救いを最高究極の価値ないし目的として、その実現を目ざし、世界の諸地域に展開している文化の総合的な体系である」と定義づけておられます。

 ただ、この説明は、「仏教の本質」を理解しようとするものではなく、学校のような公平な立場から「仏教全般」を理解するためのものであることが、前置きとして述べられております。いかにも仏教学者らしい、やや硬い表現ではあります。

 仏教にかぎらず、宗教を理解しようとするとき、この公平さというのは、はなはだやっかいな問題になります。

 といいますのも、宗教は、恋愛と似たところがありまして、どうしても、自分の信仰する宗教に対して贔屓目になりがちで、アバタもエクボ的な判断を、ときとして良しとしてしまうところがあります。小泉首相が靖国神社参拝にこだわっているのも、このあたりが関係しているものと思われます。

 また、いかに銀幕のスターが素敵で格好良いからといって、ようは、自分の夫や妻と夫婦仲良くできればそれがいちばん良いのであって、異なった宗教を比較して優劣を云々することは、あまり賢明なことではありません。しかも、恋愛論もそうでしょうが、学問として細かに分析したり、考えたりすると、現実の生活からはかけ離れていってしまいます。

 ですから、私なぞは、「仏教とは何か」という問いに対して、「安心を得るための仏陀の教え」ぐらいに、簡単にとらえた方が良いのではないかと思っています。

 私どもが生きていく上で、危険のないこと、そして、安心して暮らせることが何よりも大切なことではないでしょうか。しかし、世の中には危険がいっぱいあり、特に現代社会は、ストレス社会ともいわれ、さまざまな不安をかかえ、程度の差こそあれ、心を病んでいる人が多くいます。

 仏教は、そんなわれわれに、どんな環境、状況下にあっても、不安を取り除き、安心が得られる智慧を授けてくれる教えであると思うのです。

 ところで、安心の「安」という文字は、「家の中」に「女がすわっている」さまで、静かにとどまるから、「やすらか」の意味になったとのことです。現代女性には不服な点があるかもしれませんが、やっぱり、家庭というものは、女性がいることによって、落ち着き安心できるということなのです。

 角川書店『字源』によりますと、○やすし。危の対「平―」「―全」曲礼「人有礼則―、無礼則危」○やすんず、やすらか、おだやか「乂―」「―寧」○しずか(徐・静)「恬―」「―静」○しずまる、さだまる(定)○しずめる、おちつかす「―民」○すえる、置く「―置」○たのしむ(佚楽)○とどまる(止)○いずくんぞ、いずくにか、否定の意をあらはす反語。=焉。○ 【国】 やすし(廉価)「―直」「―価」
と、なっています。

 説明文中の『曲礼』というのは儒教の書物『礼記』の編名です。儒教では、「礼」こそ社会の秩序を保つための生活規範であり、最も重要な道徳的観念であるとされています。それは、「礼儀」「祭礼」という言葉が示すとおり、現代にもその思想が色濃く残っています。つまり、儒教にあっては、「礼」のない社会は危うく、「礼」によって「安心」が得られるということであります。

 一方、仏教では、悟りによって心の平安を獲得できるとされています。それを、「安心(あんじん)」といいます。釈尊のように、悟りを得るということは、はなはだ難しいことでありますが、そこを、一歩でも、二歩でも、近づこうという努力が、仏道修行ということであります。わが一生は一度きりですが、かつて、釈尊を始め、先人達が奮闘努力された智慧の蓄積があり、それを少しずつ身に付けることは、自信となり、降り掛かる不安にも対処できるようになるものです。

 しかし、凡夫のさだめ、限界があります。その時にこそ、法然上人の、「学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」によって、安心を得ることができるのです。

(2006/1/18)