粗忽惣兵衛(そこつそうべい)

 むかし、粗忽惣兵衛という、それはそれはそそっかしい男がおりました。

 ある日、明日は、朝早くに山の神参りをするからと、女房にいいつけて弁当を作らせ、枕元において眠りました。

 翌朝、山へいき神参りをしたとき、あわてて賽銭を投げようとして、財布ごと投げてしまって、がっくりしょげ返ります。

 それでも、いやいや、きっとご利益があるかもしれぬと、気を取り直して、弁当を食べようとすると、それは女房の腰巻きに包んだ、自分の枕でした。

 おこった惣兵衛、枕を谷底にぶん投げて、家へとんで帰り、女房をどやしつけると、それは隣の女房でした。

 惣兵衛は、平謝りをし、結局、山の神様でも、惣兵衛のそこつは直せなんだそうな……。

 こんな昔話がありますが、まさか、こんな男はおるまいと思っていました。ところがどっこい、なんと、自分の中におりました。

 先日、走らなくともよいところで走り、けつまずいて、横っ飛びという感じで転倒をし、アスファルト道路に左顔面をしたたか打ちつけてしまいました。眼鏡のレンズは割れ、恐る恐る顔から離した手には、血がしたたり落ちました。

 近くにいた警備員の方が、救急車を呼んで下さり、病院でもすぐ処置をしてもらえ、幸い、骨には異状が無く、一応の安堵はしたものの、顔面がひどく腫れ上がって、KO負けしたボクサーのようになってしまいました。三日たった今も、顔に貼り付けてある大きな包帯と、眼の周りの隈が何とも恨めしく、ため息つきつつ、本誌原稿と悪戦苦闘している次第です。

 思い起こせば、現住職も、これまでに、バイク事故で救急車のお世話になったことが、一度や二度ではありません。また、脚立の留め金をはめぬままその上に乗って、自分の重みで開いた脚立に挟まれて、足を複雑骨折したり、常に、小走りしているようなせっかちな性格から、これまで、しなくてもよい怪我をしたり、思わぬ粗相も多かったのであります。

 こんなそそっかしさを、自分の親ながら、呆れることも多かったのでありますが、今回の転倒事故によって、切るに切れない親子の因縁を、否が応でも、しっかりと自覚せねばならぬところとなりました。

 ところで、この「そそっかしい」「粗忽」「軽率」といった行為は、仏教的にみれば、煩悩から起こるものということになります。

 煩悩は、身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらきをいいます。その数は、百八あるともいわれますが、「貪・瞋・痴」の三毒、いわゆる「貪欲(むさぼり)」「瞋恚(いかり)」「愚痴(おろか)」に集約することができます。さらに、突き詰めれば、「痴」に尽きるとされます。「粗忽」は、何度も繰り返すということからすれば、やはり、「痴」であることは間違いないようです。

 また、「痴」をサンスクリット語で「モーハ」といい、「馬鹿」はその音を当てたものとするのが通説になっています。なるほど、やはり、「粗忽」は、りっぱな「馬鹿」ということになります。

 宗派を問わず、仏教徒は、その証として、四つの誓文『四弘誓願』を唱えなくてはなりません。そして、二番目の誓文には、「煩悩は無辺なれど、誓って断ぜんことを願う」と、自らの煩悩を断つことを宣言せねばなりません。

 しかし、粗忽惣兵衛ではありませんが、神様でも直せないのが、粗忽たるゆえんです。では、どうすればよいかというと、同じ仏教でも、上座部(小乗)仏教では、あくまで、煩悩を無くす、あるいは、減らす努力をせよ、というのがその教えですが、大乗仏教、特に浄土教においては、自分は、煩悩いっぱいの、愚かな存在であることを認めなさい、馬鹿な人間であることを自覚しなさい、というのがその教えです。

 つまり、粗忽は、粗忽のままでよい、愚かな者は、愚かなるが故に、阿弥陀仏の慈悲を、ありがたくいただくことができるのです。それが、念仏者の、ありがたいところです。

 ともあれ、わたしの軽率な行為は、多くの方々に、大変迷惑を掛けてしまいました。でも、少々痛い思いをしましたが、良い体験もさせてもらいました。これからは、「粗忽」と上手に付き合っていこうと思っています。

(2005/5/18)