十句観音経

  ここ数ヶ月で、左目の乱視の度が急激に進んでしまい、眼鏡のレンズを替えたのですが、どうもしっくりいたしません。とくに、新聞や本、パソコンのモニターの文字が見づらくて、眼科に行きましたところ、あっさり、「老化」で片づけられてしまいました。情けないことですが、これからは、目だけに限らず、この「老化」と、仲良く付き合っていかなければならないようです。

 ただ、仲良くすることは、人間関係おいても、好き同士ならまだしも、なかなか難しいものです。まして、出来れば避けて通りたい、「老い」・「病」・「死」と仲良くしろといわれても、自分の内にあるものからは、逃げるに逃げられず、ただ、苦しさだけが募ることになります。やはり、ここは、仏の智慧をお借りせねばなりません。

 仏教経典を紐解くといいますと、長くて難しいという印象が強いかもしれません。しかし、わずか十句、四十二文字の最も短い仏教経典として知られる『十句観音経』に目を向けてみましょう。

 この経典は、中国で冤罪で死刑を宣告された人が、夢の中で教わったものだと伝えられる偽経 (サンスクリット語の原典がないもの)に分類されるものですが、何度も、ただ唱えるだけでご利益を得られるとされ、奇蹟を生む経典として、読誦に写経にと、とても重宝なお経なのであります。

 日本では、江戸時代、白隠禅師の著作『延命十句観音経霊験記』によって普及しました。『延命十句観音経』ともいいますが、この「永遠の命をいただく」という意味の「延命」の二字を付け加えたのは白隠禅師であります。

  十句観音経

 観世音 南無仏      

 与仏有因 与仏有縁

 仏法僧縁 常楽我浄

 朝念観世音 暮念観世音

 念念従心起 念念不離心


 解釈としては、意訳になりますが、「私どもは、仏さまの因と縁をいただいております。観音さまのことを朝な夕な念じ続けますので、どうか、そのお徳をお授け下さい」となります。

 さて、その徳とは、「常楽我浄」であります。〈常〉いつまでも変わらない、〈楽〉楽しみで満ちている、〈我〉仏の大きな命に包まれている、〈浄〉清らかで汚れがない、ということです。ただ、これらの徳は、観音さま、仏さまの徳であって、凡夫である我々には、本来かなわないものであるということを、あらかじめ認識しておかなくてはなりません。

 たとえば、不幸にして子どもを亡くされた方の場合、これまで通り、ずっと楽しくと願っても、それはかなわないことです。そのことで、責任を追及し続けていたのでは、いがみ合うようなことになり、さらに悲惨な結果を招くことになりかねません。

 「あの子は、観音さまの生まれ変わりであったのだ。私に仏縁を結ばせてくれるために、わざわざ私の子となって生まれてきてくださったのだ。」そう信じることで、死んだ子も救われ、親も救われるのです。そしてそこから、これまでになかった、「楽」が生まれてくるのです。

 ともあれ、私どもは、この世を無常であるのに、常であると考えたり、苦を楽と錯覚したりするのは、貪りの心があるからだとされます。病気になったら、完全に元通りに治らなければ納得できなかったり、老化現象なのに、若返りを願うのは、欲が深いといわれても仕方のないところです。

 この貪りの心を持った欲の深い人のことを、餓鬼といいます。この餓鬼には、無財餓鬼・少財餓鬼・多財餓鬼の三種あるそうです。

 無財餓鬼は、財産がないわけですから、むろん満足できません。少財餓鬼は、少し持っていますが、やはり、満足にはいたりません。多財餓鬼は、立派な家に住み、大きな車に乗って、ブランド品で身を包み、ぜいたく三昧していても、餓鬼の性、満足できません。

 努力して、頑張って、頑張って、次から次へと欲しいものを手に入れたとしても、それで満足できなければ、不幸なことです。無財餓鬼も辛いが、多財餓鬼は、欲の深い分、より不幸だといえましょう。

 一方、完全なる「常楽我浄」を望むことなく、今ある現在に満足し、「少欲知足」の心を育むことによって、奇蹟も生まれ、永遠の命をいただくこともできるのです。

 本当に短いお経です。是非そらんじて、唱えてみて下さい。

(2004/8/18)