ハイブリッド

 知人から一通のメールが届きました。抜粋して紹介すると、次のようになります。

 ――「生かされて生きる」とか、「生かされている私たち」という表現の、「生かされている…」という日本語は、正しくないのではないかと感じています。「生かす」=「殺さない」ならば、「殺されずにしてもらっている」という意味になり、本来、表現したい「頂いた命」「共に生きる」という意味ではないように思うのです。――

 この「生かされる」という言葉は、キリスト教では、「復活の主イエスに生かされる」とか、仏教では、「弥陀に生かされている我ら凡夫」という具合に、宗教の方面ではよく目にする表現であります。ただ、古い文献には使用例を見かけたことがありませんので、比較的新しい表現であろうと思われます。はたして、疑問を呈した彼の主張は、正しいのか、別に問題ないのか、考えてみることにしました。

 ここに一人の漁師が、魚を捕らえてきて、海の浅瀬に生け簀を作り、そこに捕らえてきた魚を放ったとします。この場合、漁師は、魚を殺さず生かしているのであり、魚にしてみれば、とりあえず殺されずに、「生かされている」ことになります。

 一方、生け簀の外に広がる大海に住む魚たちはというと、自由に生きているといいつつ、一漁師といった存在ではない、もっともっと大きな存在に生かされているということができます。それは、弱肉強食、種の進化といった、自然の摂理に従って「生かされている」のであり、仏教では、それを法(ダルマ)と呼びます。

 その法(ダルマ)の主は、宗派によって、盧舎那仏であったり、大日如来であったり、阿弥陀如来であったりしますが、この場合の「生かされている」は、絶対的な大きな力によってコントロールされているということであり、人為的な「殺されずにしてもらっている」といった次元の意味合いとは異なるものであります。そして、まさにその仏に生かされているという実感は、信仰を得て、はじめて体得されるものであります。

 つまり、自分自身という存在を、生け簀の中の個としかとらえられず、信仰心がいまだ確立していない状態の人であれば、「正しくない表現」という彼の指摘は妥当かもしれません。しかし、信仰心がすでに確立されていて、自身の存在を、宇宙の中の個としてとらえている人にとっては、「的確な表現」といえるのではなかろうかと思うのであります。

 さらに、この「生かされている」という概念は、宗教における救いに関わる問題として、とても重要です。一般に、キリスト教は、絶対者(神)に祈願・奉仕して救いを求める、他力的宗教とされるのに対して、仏教は、自身が絶対者(仏)になることを通して救いを得る、自力的宗教であるとされます。そして、キリスト教的な救いは〈救済〉と呼ばれ、それに対して、仏教的な救いは〈解脱〉と呼ぶことが多いようです。ただ、弥陀の他力を頼る浄土教は、〈救済〉的傾向が強く、キリスト教においても、〈解脱〉的な宗教経験を重要視するものも存在するようです。客観的に見れば、救いの手段・方法は、実にさまざまであるといえます。

 話は、がらっと変わって、私ごとですが、このたび、前車が走行距離十一万キロを超えたのを機に、プリウスというハイブリッド車を購入いたしました。ガソリンエンジンと電気モーターを組み合わせた、ちょっと変わった動力機構をもつ車です。

 乗っての印象は、すこぶる良好で、特に燃費の良さは、驚嘆するに値します。エンジンとモーターとが、うまく調和されているからでしょう。車と宗教を一緒にはできないかもしれませんが、宗教においても、他力(救済)と自力(解脱)をバランスよく調和させることができたら、素晴らしい教えになるのではないか……。

 実は、我が西山の教えは、このハイブリッドな教えなのです。

 行業とぼしくとも疑うべからず。経に乃至十念の文あり。はげむも悦ばし正行増進の故に。はげまざるも悦ばし正因円満のゆえに。(西山上人『鎮勧用心』)

 どうです。世の中、スポーツカーのような車でないと満足できない方もいますが、ハイブリッド車は、少しのガソリンで長い距離を心地よく走ります。弥陀の救いの確信を得た上での諸行(励み)は、心地よく持続できるものです。

(2004/6/18)