たらの首輪

 「お母さん。たらちゃんが、たらちゃんが。」
 「あぁ、ふるえているじゃない。」
 「歩けないみたい。痛いんだよ。きっと、苦しいんだよ。変だよ、絶対に変だよ。」
 「バスタオルを持ってきて。」
 「どうするの?」
 「大きい病院に連れて行くの。」

 ぼくは、タオルにくるまれ、車に乗せられた。以前のぼくだったら、だれよりも真っ先に、車に跳び乗ったものだが、今は、それができない。体全体がさび付いてしまったようで、あしを動かそうにも動かせないのだ。

 「ねえ、たらちゃん、治るよね。死んだりしないよね。」
 「大丈夫よ。きっと大丈夫よ。」

 それから、どれくらい時間がたっただろうか、病院に着いてからのぼくは、最悪だった。みんなして押さえつけられ、口をむりやり開けられたり、針を何本も刺されたり、わけの分からない痛さと苦しさで、体がばらばらに砕けるかと思ったほどだった。

 「検査の結果は、……。」
 「良くないです。」
 「うそ、うそでしょ。だって、少し関節の具合が悪いだけだっていってたもの。薬だって、毎日飲ませていたのに。」
 「そう、そんなはずないわよ。」
 「しかし、分かっていることは、体中にガンがまわっているということです。今生きていることが不思議なくらい、状態は悪いです。」

 お嬢さんと、お母さんが、ぼくのために泣いてくれた。あの時の泣き声は、忘れることができない。つらかったけれど、うれしかった。いく粒も、いく粒もぼくの顔に、体に温かい涙が落ちて伝わった。
 でも、背中にチクッとした痛みのあと、その温かさは感じられなくなり、あれほど苦しかったこれまでの痛みが、うそのように消えてゆくのが分かった。そして、みるみる浮くように体が軽くなり、ぼくの体は、しだいに、ぼくの体でなくなっていった。

 「お母さん、たらちゃんが。」
 「………」
 「たらちゃんが…。」
 「たらちゃん、連れて帰ろう。」

 また、ぼくの体は、タオルにくるまれ、ずっとお嬢さんに抱かれていたが、どのように家に帰ったか、思い出すことができない。

 「お母さんがいけないのよ。もっと早く、大きな病院に連れて行っていたら…。それに、それに…。」
 「つらいのは、あなただけじゃないのよ。」
 「だって、だって…。」

 ぼくもつらかった。ぼくは、しっぽやヒゲを引っ張られたからって、お嬢さんのこと怒ってなんかいない。脱いだ靴下を、よく隠したりしたから、ぼくが謝らなくてはいけないくらいだ。だから、ぼくのことで、お母さんを責めないで欲しいんだ。
 その夜、ぼくを呼ぶ声がしたので部屋にいくと、お嬢さんが枕をぬらして泣いていた。ぼくは、そのほおを伝う涙を、何度も何度もなめた。そして、それが、その日からぼくの日課になった。

 「ハウスの中、やっぱり、たらちゃんの首輪だけ…。」
 「たらちゃん、たらちゃんて、あんまり、たらのことばかり心配していてはだめよ。」 
 「お母さんだって、毎日、ご飯とお水あげているじゃない。」
 「そうね。まだ、たらちゃんここにいるような気がするの。」

 それは突然だった。その夜も、お嬢さんの枕元で寝ていると、ぼくのなまえを呼ばれた。とても優しい声だった。そして、呼ばれた方の向こうが、金色にひかり輝いていた。ぼくは、もうここにいられないことを直感した。
 
 「おはよう。」
 「お母さん、わたしの靴下知らない?」
 「置き忘れたんじないの。」
 「ううん、ちゃんと枕元に置いて寝たもの。」
 「もしかして、たらのハウスの中だったりして…。」
 「ああ、首輪もない!」
(2004/5/18)