もしも @(本人篇)

 自分自身のことで、百パーセント確かなことといえば、いずれ死ぬということであります。だれもが分かりきっていることではありますが、それが現実となった時、われわれの心は尋常でなくなります。そのあたりの揺れ動く心を、エリザベス・キューブラー・ロス女史が、二百人もの臨死患者とインタビューし、『死ぬ瞬間』(一九六五)にまとめました。この研究で最も注目されたのは、臨死患者が死にいたるまでの心理過程に、五つの段階があるという点でありました。概略は、次のとおりです。

◎第一段階/否認

 予期しない、死の告知という衝撃的なニュースをきかされたとき、ほとんどの臨死患者は、そのショックをまともに受けないために、これは何かの間違いであり、死の事実を受け入れるなど、とんでもないことだと否定する。

◎第二段階/怒り

 もはや、死という現実を認めざるえなくなると、次に、憤り、羨望、恨みなどの感情が、取って代わるようになる。
 「なぜ自分だけが、こんな目に会わなくてはならないのか!」
 見るものすべてが怒りの源となる。この持って行きようのない怒りが、周りの人間に向けられ、患者は、疎まれ避けられるようになる。

◎第三段階/取り引き

 次に、神や仏に対して、自分がどのようにすれば延命できるか取引し始める。
 たとえば「もう財産はいりませんから命だけを与えてください」とか、「自分が良いことをすれば、神仏が褒美に、治してくれるかもしれない」などと考える。
 うまくすれば、自分の死を先へのばせるかもしれないと考える段階である。

◎第四段階/抑うつ

 病気が進行し、衰弱が進んで、無力感、喪失感が深刻となる。それとともに、この世との別れを覚悟するために、他人から癒されることのない絶対的な悲しみを経験するところとなる。さまざまな重圧から、患者はうつ状態におちいる。

◎第五段階/受容

 疲れきり、衰弱し、短く間隔をおいて眠る状態となる。ここではほとんどの感情がなくなってくる。
 痛みは去り、闘争は終わりと感じるようになると、患者は、来たるべき自分の終焉を静かに見詰めることのできる、受容の段階に入る。
 無欲になり、周囲の対象に何らの執心もない。死に対して恐怖も絶望もない。「長い旅の前の最後の休息」のときが来たかのようである。このときの静かな境地を「デカセクシス」と呼ぶ。

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 このキューブラー・ロス女史の段階説には、いくつかの批判もあります。すべての人が、この順番どおりに心理的変化を体験するとはいえないからです。ある段階にとどまってしまう人、ある段階を飛び越える人、錯綜する人もあり、受容を待たずして、亡くなる場合もあるでしょう。しかし、誰もが目を背けていた悲嘆の過程を聞き出し、分類した功績は、おおいに評価されています。

 また、人は、死を予告されたあと、絶望し、のたうち回って、失意の中で死にゆくものではなく、最後には、死を受容し、静かに逝くことができるものであることを知り得ることは、救いであります。その境地、「デカセクシス」は、仏教における「涅槃」に通ずるものがあるように感じます。

 イソップ物語でしたか、キツネが、お腹を空かして歩いていると、熟れた葡萄が垂れ下がっています。跳び上がって取ろうとするのですが、何度やっても、もうちょっとのところで届きません。ついに、諦めたキツネは、「あの葡萄は酸っぱい」といって、立ち去ります。

 どうしようにも、為す術がないとき、それでもなおジタバタして、疲労困憊する者もおれば、キツネのように、ある時機を境に諦めることができる者もいます。

 諦めるという行為は、納得がいかなくては、諦めきれるものではありません。「真実を明らかにする」というのがその語源で、決して、降参(ギブアップ)することではないのです。

 われわれが、死を目前としたとき、ロス女史の前述の指摘は、ひとつの指針になります。キツネは、獲得不可能という現状判断から、「あの葡萄は酸っぱい」と自身に言い聞かせて、その現実を受容しました。われわれにとって、そのキーワードは、やはり、「南無阿弥陀仏」でなくてはなりません。心しておきたいものです。

(2004/3/18)