人生は途中下車

 明けまして、おめでとうございます。旧年中は、檀信徒各位、本当にお世話になりました。本年も、よろしくお願い申し上げます。

 さて、毎年、当山から版画カレンダーをお分けいたしておりますが、たまたま平成十六年一月分の図像と標語のことについて、それぞれ別個にご質問をいただきました。そこで、この紙面を通して、私の分かる範囲で説明させていただくことにいたしました。ただ、このカレンダーは、私自身が制作したものでありませんので、的確なお答えにはならないかもしれません。そのあたりのことは、ご了承のほどよろしくお願いいたします。


 まず、図像は、滋賀県草津市、橘堂の木造観音菩薩立像(平安時代中期)であります。通常の十一面観音の場合、頭上に十の小面をつけ、本面と合わせて十一面となるのですが、この像は、耳の後ろの両側に大きな面がついているという、ひじょうに特徴的なお姿をしておられます。このような像は、渡岸寺の国宝十一面観音像(平安前期)が有名ですが、その他の作例はごく少ないということです。しかも、十一面観音の場合、二臂か四臂であるのに対して、六臂(腕が六本)あるという、珍しい菩薩像であります。

 この琵琶湖周辺近江という地域は、奈良京都とはまた違ったすばらしい仏像や仏閣と巡り逢えるところであり、なんとか機会を見つけて訪ねてみたいものです。

 つぎに、「人生は途中下車。目的地はない。」という標語についてです。残念ですが、出典は分かりませんでした。

 人生は、よく道や旅にたとえられます。その範疇の言葉であることは、一読して理解できるのですが、「途中下車」さらに「目的地はない」と言い放たれると、少なからずとまどいを覚えます。

 次の高村光太郎の詩の趣意とは、よほど違っているように思われます。

   道程
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため
      (詩集『道程』から)

 この詩からは、希望・気力・勇気・進歩といった、前向きな言葉が次々と思い浮かんでくるのですが、「途中下車」「目的地はない」というのは、どうもよくありません。この言葉の意味の採りようによっては、萎えてしまいかねません。その真意はどこにあるのでしょう。

 そのことを考える上で、宗教そのものについて考える必要がありそうです。宗教・哲学・道徳は、人間の生き方に指針を与えてくれるるものということでは共通していますが、大きな違いがあります。

 たとえば、「他に迷惑をかけてはいけない」という教えは、社会生活を営む上で基本となるものですが、これは道徳であります。哲学は、それをいかにすべきかを追求する学問です。それに対して宗教は、「人は、本来、迷惑な存在である」と認識、自覚できる心を培う教えであります。

 人は、他の命をもらわなくては生きていけません。出世しようと思えば、他を蹴落とさねばなりません。満員電車にやっと割り込めたと思えば、多くの人に窮屈な思いをさせてしまっているのです。そう、人は生きているだけで、迷惑千万な存在なのです。その認識こそが大事なのです。そこから懺悔の心が生まれ、自分には厳しく、他人には寛容になれるのです。

 そこで、改めて「人生は途中下車……」を見てみましょう。

 わが人生を振り返ってみれば、確かに途中下車ばかり。そして、どこへ行けばよいのか、目的地は、漠として見えてきません。「わが人生に悔いなし」、それは思い上がりというものです。聖徳太子曰く、「世間虚仮、唯仏是真」、ただ仏のみが真なのです。驕る心に懺悔せねばなりません。

 だから、そんな至らぬわが身を、生かし見護って下さる、阿弥陀さまの慈悲に、「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えるのです。

(2003/12/18)