むかしの友

 「親の因果が子に報い、生まれてきたのがこの子でござい……」

と、ヘビ女の絵が掲げられた見せ物小屋の入口の脇で、だみ声の男が呼び込みをしているような光景は、現在、見るようなことはありません。

 仏教における因果応報という考え方が、ときに、例えば障害も持つ方の人権を侵害するということで、今日では、この因果に関することは、積極的に強調しなくなりました。というより、説教の場でも、触れてはいけないことのようになっているのが現状であります。

 しかし、目や耳を覆いたくなるような犯罪や事件が、近年頻発しており、前述のことは十分配慮した上で、仏教者は、因果応報の教えを、避けて通るべきではないと思うようになりました。

 良心や道義心は、道理だけで身に付くものではありません。子どもの頃に繰り返し聞かされる、悪いことをすれば必ず報いがあるという教えは明快で、恐ろしい地獄図とともに、悪や不正や非道といったものに対する抑止力になり得ると思うのです。

 そんな思いから、次のお話を聞いていただけますでしょうか。

  …………………………

 むかし、金持ちの婦人が、二人の子どもを連れて街中を歩いていました。すると、素晴らしく豪華な品や、美しい品を並べて売っている商人がいました。

 婦人は、品物に見とれて、ゆっくり品定めをしようと、上の子どもに、家へ腰かけを取りに戻るよういいつけました。商人は、婦人の顔をじっと見つめて、ニッと笑いました。婦人は、不快に思いました。

 子どもは、なかなか戻ってこなかったので、婦人は、戻った子どもを打って叱りました。商人は、また笑いました。

 もう一人の方の子どもは、小さな太鼓を打ちながら、踊り戯れていました。商人は、これを見て、また笑いました。

 一方、父が病気だといって、その息子が、牛を殺して、すぐ脇の鬼神の像に供え祈っています。商人は、これを見てまた笑いました。

 また、一人の若い母親が、子どもを抱いてそこを通り過ぎました。子どもがむずかり、母の頬を掻いて血を流しています。それを見て商人は、また笑いました。

 婦人は、商人にいいました。

 「あなたは、先ほどからむやみにお笑いになるがどうしてですか。」

 「むかし、あなたとは仲のよい友達でしたのに、お忘れですか。」

 婦人は、変な男だと思って、ますます不快に思い、キッと睨みました。商人はかまわずいいました。

 「子どもを打つのを見て笑ったのは、前世では、あの子どもはあなたの父上であったゆえです。

 太鼓を打っていた子どもは、前世では牛で、主人であった、あなたの子どもとして生まれたのです。その牛の皮で張った太鼓を、自分の体とも知らずに打ち戯れているのを見て笑ったのです。

 また、牛を殺して神に祭り、病気を癒そうとするのは、生かそうとして殺しているのです。あの息子は、牛に生まれ変わることになるでしょう。そして、何度も何度も殺された牛は、人間に生まれ変わるでしょう。可笑しいと思いませんか。だから、笑ったのです。

 また、あの若い母親と子どもは、前世では、正妻と妾という関係であったのです。命終わって、正妻の子どもとして生まれ、わがままをいったり、顔を傷つけたりして、恨みを晴らしているのです。母親は、それを愛しいと思っている。可笑しいじゃありませんか。

 一世代だけでさえそうですから、幾世代の間には、誠に笑うに堪えないことばかりです。仏の正しい教えを聞かないで、はかない現世の栄華にうつつをぬかしているからです。わたしはこれでお別れします。他日必ず、あなたの門前に伺います。さようなら。」

 こういい終わると、商人は忽然といなくなりました。その不思議さに、婦人は、ぼう然として家に帰りました。

 それから幾日か過ぎた頃、婦人の家へ、友人と名乗る乞食が訪ねてきました。追い返そうにも容易に動かないので、しかたなく出て、

 「お前のような友達はいない。」

と、荒々しくいいました。

 乞食は、笑いながらいいました。

 「ちょっと姿を変えただけでこうですから、世が変わっていたら知れるわけはありませんな。この命は一呼吸の間に過ぎません。永遠の道を忘れてはなりませんぞ。」

 そういい残して去る男の後ろ姿は、光り輝いていました。

(2003/11/18)