蓮花一話

  蓮の花を、初めて見た時、中学生の頃だったでしょうか、いうにいわれぬ、不思議な感動を覚えたことを記憶しています。極楽浄土に咲く花として、絵に描いたものや、常花として、木や金属でかたどったものは、寺の堂内のそこかしこにありましたから、見慣れているはずなのに、実際に見た、すくっと伸びた茎から、楚々と咲くその花は、色といい、形といい、まさに浄土からの風に乗ってきた芳香をかぐような思いをさせてくれたのです。

 蓮は、仏教とはひじょうに関わりの深い植物ですから、仏典にもたびたび登場します。そんな中、『雑阿含経』第五十の「蓮池問答」という、興味深いお話がありますので、紹介いたします。

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 コーサラ国のある林の中で、一人の修行者が、眼病にかかりました。医者に診察してもらうと、

 「蓮池の側にいて蓮の香りをかいでおれば、自然に治る。」

といわれ、さっそく林の近くの蓮池のほとりに座り、紅蓮の花の、得もいわれぬ芳しい香りを風のまにまにかいでおりました。

 すると、この蓮池の主である神が現れ、修行者に怒っていいました。

 「私に一言の断りもなく、なぜ蓮の香りをかぐのだ。おまえは盗人だ。」

 修行者は、反論していいました。

 「蓮を傷めるわけでもなく、取るわけでもなく、遠くで香りをかいでいるだけで、なにゆえに盗人なのか。」

 すると、蓮池の主がまたいいました。

 「求めもしなければ、許しも受けず、黙って匂いをかいでいる。それがほんとの盗人だ。」

 こういって二人が問答している最中に、一人の男が、ずかずかと池の中に入り込み、池中をかき回し、蓮の花や根を山のように抱え込み、そのまま黙って行ってしまいました。しかし、池の主は、この狼藉に対して、一言の嫌みもいいませんでした。

 そこで修行者は、

 「花をむしり、根を抜いた今の男をとがめずに、なにゆえ私をとがめるのか。」

というと、池の主は、答えていいました。

 「黒い衣は汚れても、人はさほどに思わない。白い衣が汚れれば、人はすぐさま目をつける。今の男は悪人で、黒い衣を着けている。お前は、白い衣を着けた浄い善人で、少しの汚れでも、すぐわかる。」

 修行者は、これを聞いてたいそう喜んでいいました。

 「ありがとう。ありがとう。あなたは、私のための善知識だ。どうかいつまでも、私のために教えの言葉を聞かせてくれまいか。」

 すると、池の主は、答えていいました。

 「私は、お前の奴隷ではない。お前のそばについていて、お前を教えるいわれはない。お前のことはお前がやるがよい。」

 修行者は、池の主の言葉を聞いて深く喜び、林の中に入って、修行に専念した結果、ついに大いなる悟りを得たということです。

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 子どもを叱ると、よく反論してくる言葉に、 

 「なんで、ボクだけ…」

というのがあります。たいていの大人は、これをいわれると、黙ってしまうか、ゲンコツの一撃を加えるのが通例のようであります。

 戦後の教育の中で、自由平等ということが重要視され、徹底教育された結果、自由平等こそ正しいと信じて疑わない人が実に多くいます。ですから、そのような教育を受けた親たちは、子どもに「なんでボクだけ」といわれると萎えてしまうのです。

 平等であることは、確かにすばらしいことです。しかし、すべてに当てはめて考えると、「お手々つないで徒競走」のような、変な平等観念を是としてしまうことになります。

 仏さまには、「仏さまの物差し」があると聞いたことがあります。それは、測る対象となる人に応じて、伸びたり縮んだりするのです。つまり、コーサラ国の修行者のように、道を究めるべき人を測る物差しと、極悪人を測る物差しとでは基準が違うのです。

 今度、子どもから、「なんで、ボクだけ」といわれたら、このお話を聞かせてあげて下さい。そして、蓮の花が咲く季節、実際に、浄土から吹く風に乗って漂ってくる、蓮の花の香りを、胸いっぱいにかがせてあげて下さい。

(2003/8/18)