争わないこと

  「争い」という語句を、『類義語辞典』で調べてみますと、「いざこざ・ごたごた・諍い・揉め事・啀み合い・角突き合い・内輪揉め・トラブル・喧嘩・悶着・軋轢・葛藤・紛争・紛糾・紛擾・闘争・内紛・内争・訌争・内訌・係争・政争」と、まあいろいろあるものです。

 確かに、人間は、兄弟喧嘩や夫婦喧嘩に始まって、国対国の戦争にいたるまで、いろいろな場面や場所で、争い合っています。人間が生き物である以上、衆生としての宿命なのかもしれません。

 争いというものは、必ず相手があります。争えば、双方に負担が掛かってきます。その原因を探り、早期に解決するのが望ましいといえます。それには、相手を非難するだけではだめで、多くの場合、自分にも非があるものであり、それを認めることが解決の第一歩であるといえます。

 ところが、なかには、自分の側には思い当たる節が全くなく、言いがかりとしかいいようのないようなトラブルに巻き込まれることもあります。釈尊にも、こんなエピソードがあります。

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 釈尊が舎衛国の祇園精舎に居られたときのことです。パセーナディ王が、釈尊や仏弟子たちに、供養を捧げたいと招待したので、大衆を引き連れて、王宮に向かわれました。そのとき、ボウシという尼僧が、道端で釈尊の袖にすがっていいました。

 「仏様、あなたは私の夫です。このとおりあなたの種を宿しておりますのに、少しも顧みては下さらない。衣食も与えて下さらない。どうか妻の私を愛して下さい。」

 見れば、この尼僧は、今日明日とも知れぬ大きなお腹をして、息苦しそうに喘ぎながら、釈尊にすり寄りました。

 お供の大衆の驚きは、一通りではありませんでした。この清浄高徳の釈尊が、尼僧をはらますということがありましょうか。尼僧は、また釈尊のお弟子でありながら、どうしてこのような辱めを与えようとするのだろうかと、一同はただ顔を見合わせて唖然としていました。

 釈尊は、大衆の心中を察し、その疑惑の心を解いてやろうと、はるかに天の一方を仰ぎ見られました。帝釈天は釈尊の意のあるところを知って、直ちに小さな一匹のネズミに化けて、その尼僧の側に走り寄りました。見れば、尼僧の裾から大きな木片が転げ出して、今まで大きく膨れていたお腹は、たちまち小さくなってしまいました。ネズミが木片をかけた縄を噛み切ったからでした。

 大衆は尼僧の奸計を知って、その罪を憎みました。国王も大いに怒って厳命しました。

 「仏弟子となりながら、大聖を誹謗しようとするけしからん尼僧だ。地を掘って、この女を逆さ埋めにせよ。」

 しかし釈尊は、これを押し止めて、王や大衆に告げられました。

 「決して、酷くこのものを罰してはならない。これも仏の宿罪のいたすところで、この者ひとりの罪ではない。」
といって、次のような物語をされました。

 「過去世に、ひとりの商人が、たくさんの立派な真珠を持っていた。ひとりの女が、以前から持っているのと同じ大真珠を買おうとしたとき、ひとりの男が来て、その大真珠を倍の値を打ち出して買い取ってしまった。女はせっかくの望みの大真珠を得られなかったので、恨めしく思って、その大真珠を譲り受けたいと申し込んだが、その男はそれを断った。幾度も頼んだが、ついに承諾しなかった。そこで、この女はこう誓った。

 『これほどまで頼んでも聞いてくれず、私を辱める。生々世々、この恨みを忘れずに、あだをしよう。』

 この恨みを抱いた女は、ボウシ尼僧であり、真珠を買った男は、すなわち我が身である」、と。

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 さて、いかがでありましょうか。争いでは、どうしても、相手を責めたくなります。罵りたくなります。まして、自分に非がないとなれば、なおさらのことであります。しかし、それでは、解決しないのです。では、どうすればよいのでしょう。

 釈尊のエピソードに、その答えがあるように思えます。前世の因縁にまで遡って、懺悔するのです。怒りの火を消し止めてしまえば、争いはなくなります。争わない方法は、これしかないように思えるのです。

(2003/3/19)