天への道案内

  人間、幸せになりたいと願うのは、誰しも同じだとは思うのですが、その方法は、人それぞれ違うようでして。中には、戦死すれば天上に生まれることができ、幸せになれるっていう手合までいたりして、世の中、なにがなんだか訳がわかりません。

 「おい、熊公。何を慌てているんだい。」 

 「おう、八か。そこの裏山んところで、えれえことになっているんだ。」

 「お前のえれえことというのは、いつも、ろくなことがねえからなあ。」

 「それが、庄屋さんとこの坊が、薪をいっぱい集めて、火を点けて、飛び込むのどうのこうのと、そりゃあえらい騒ぎよ。あっしとしちゃあ、あの坊には、銭を借りているんで、火に飛び込んでもらってもいいんだがな。」

 「何馬鹿なこといってやがる。また、何でそんなことになったんだい?」

 「いや、それがとんと見当もつかねえ。」

 「おお、あの人だかりがそうかい。おおい、庄屋の坊、早まるのはよせやい。」

 「あれ、八さん、熊さん、お揃いでお見送り、ありがとうございます。わたしは、これから天上へ参りますんで、どうぞ、喜んで見送って下さいまし。」

 「見送りに来たわけじゃねえ。熊の野郎に、金貸してあるって言うじゃねえか。返してもらってからでも、遅くはあるめい。」

 「なにも、あっしとしては、餞別に差し上げますんで、別に遠慮なさらず、お急ぎになっていただいても、結構なんで……。」

 「借金を餞別にしてどうする。それより、行き先はいったいどこなんだい?」

 「とう利天というところです。」

 「とうり(道理)で。」

 「熊は黙ってろい。」

 「いや、熊さんとは親戚というか、多少は関係あるとこで。」

 「それみろ。八みていに、地獄の八丁目から来たやつとは違って、おれ様には、とう利天に親戚があるんだとよう。八とは、気品ってものが違うだろうが。」

 「いやいや、親戚といっても、クマと言えばトラ、トラと言えば寅さんということで、『私、生まれも育ちも葛飾柴又です、帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んで、フーテンの寅と発します』で、出てくる帝釈天が住んでいらっしゃるところなんです。」

 「どうせそんなことだろうと思った。それじゃあ、別に、そんなクソ熱い思いをせんでも、葛飾柴又の帝釈天へ行って来たらいいじゃねえか。」

 「いや、そんな、もっと遠くへお行きになっていただきませんと、借金が……、あっしは困りますんで。」

 「いやいや、柴又は帝釈天の仮の住まい。本当のお住まいは、須弥山という高い山の頂、ここから、三百三十六万里も離れたところにあります。そこへ、今から煙とともに参ります。」

 「しめた。薪がよく燃えるように、団扇であぶってやろうか。」

 「熊、いいかげんにしねえか。ところで、とう利天というのは、そんなにいいところかい?」

 「なんでも、お釈迦様の母上がお亡くなりになったあと、お生まれになったところで、すばらしい楼閣がそびえ立ち、香りのよい樹木や花々で満ちあふれ、そこの天人の寿命は、人間の世界の百年を一日一夜としたときの千年にもなるといい、そこの天女の美しさは、とても言葉では言い尽くせぬほどで、まさに楽園であるそうです。」

 「その話のった。おれもついでに連れて行ってくれ。」

 「熊、本当にお前はそそかしいやつだなあ。隣村へ行くにでも道に迷うようなやつが、ここから三百三十六万里も離れたところに迷わずどうやって行くんだい。庄屋の坊にしたって、実際行き方を知っているわけじゃああるめい。」

 「いや、あそこに居られる教祖様がおっしゃるには、……。」

 「なんだ、案内人がいるんなら、初めっから言えばいいのに。おれが連れてきてやらあ。」

 「拙僧に、なに用かな?」

 「よう、教祖様。ひとつ、とう利天まで道案内を頼むわ。」

 「いや、拙僧は年も取っており、足も遅いゆえ、道案内には不向きで……。」

 「おいおい、最後まで言い終わらないうちに、教祖様、脱兎のように駆けて行っちまったぜ。」

(2002/11/19)