白拍子

 今年の夏はとりわけ暑く、連日の酷暑日や熱帯夜にはまいりました。体調を崩された方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、立秋、お盆も過ぎまして、朝早くに外に出てみますと、暑いとはいえ、風と空気に秋の気配を感じます。そういえば、八月十二日にツクツクボウシの声を今年初めて聞きました。秋の訪れは、案外早いのかもしれません。

 「秋を愛する人は、心深き人、愛を語るハイネのような、ぼくの恋人」と、『四季の歌』に歌われるように、秋は、人を少々感傷に浸らせてくれる季節であります。唐突ではありますが、「白拍子」という存在をご存じでしょうか。

 舞のひとつの形態、およびその歌舞を演じ、それを職業とする女性のことをいうようですが、時代的には、平安時代末期から室町時代初期にかけて登場します。語感からして、なにやらもの悲しい雰囲気をもっていますが、多くはそれが遊女であったということからでしょうか。一時期、遊女の代表的別称となっっていたこともあったようです。

 その出立は、扇をもち、水干に立烏帽子、白鞘巻の刀を差す男装であったとされ、今風にいえば、宝塚の男役スターのようであり、祇園の舞妓さんとは対比をなすような存在であったようです。

 歴史に登場する白拍子で有名なところといえば、源義経の愛妾、静御前(鎌倉時代初期)でありましょう。兄頼朝と不和になり、西国におもむく義経に従って行をともにしますが、行く先を案じた義経が、生まれ故郷の京へ帰らせようと別れたところを捕えられ、鎌倉に送られます。鎌倉では義経の所在に関して厳しい訊問を受けますが、静は固く沈黙を守ったといいます。頼朝の妻政子は歌舞をよくするという静を、鶴岡八幡宮で舞わせます。静は「しずやしず賤の苧環くりかへし昔を今になすよしもがな」と義経への慕情を歌ったため、頼朝の不興を買います。しかし、政子のとりなしによってその場は事なきを得ましたが、まもなく産んだ男子は、頼朝のために由比ヶ浜に捨てられたといいます。静はその後京都へ帰されますが、詳しいことは伝わっていません。

 白拍子といえばもう一人、忘れてはならない人がいます。源氏といえば平家、平清盛に寵愛された祇王であります。これには、平家物語、平曲にも能にも、その名も『祇王』というのがあり、次のような内容になっております。

 平清盛はわがままいっぱいに暮らしており、その最愛の白拍子に祇王という女がいました。

 祇王は遊び女たちのうらやみの的でしたが、仏御前という若い白拍子が、自分も一度はというので清盛邸に自ら押しかけてきました。清盛はその無礼を責めましたが、祇王の取りなしで清盛の前へ出た仏御前は、〈君を始めて見る折は、千代も経ぬべし姫小松……〉という今様をみごとに歌って人々を感動させました。

 清盛の心は、はからずも仏御前に移り、祇王は退けられたので、障子に和歌一首を残して涙ながらに邸を出ました。

 翌春、祇王が清盛に召されたのは、こともあろうに、仏御前の退屈しのぎのためでありました。祇王は、流れる涙をおしぬぐい、〈仏ももとは凡夫なり……〉という今様を歌ったので、満座の涙をさそいました。

 ほどなく祇王は、二十一歳の若さで尼になり、嵯峨の山里に引きこもりました。母の刀自、妹の祇女も遅れて尼となり、親子三人、罪深い浮き世を離れて、日の西山に沈むのを見ては、遥か浄土を想い、憂き悲しみをうち忘れておりました。

 それから幾年か経て、ある夜戸をたたく音に開けて見ると、意外にも仏御前が立っていました。仏御前は、祇王の書置に胸を打たれて清盛に退出を願ったが、許されないので抜け出して来たと言って被衣を脱ぐと、尼になっているのでありました。

 その後、仏御前と祇王、祇女、そして母の刀自の四人の女性はいっしょに念仏を事とし、ともに極楽往生を遂げたといいます。

 さて、このお話は、『平家物語』全編の基調となっている、盛者必衰の理、栄枯盛衰がテーマとなっております。この秋にでも、ゆかりの寺である京都は嵯峨、祇王寺に訪れてみてはいかがでしょうか。庵の丸窓からの風景は、趣深いものがあります。当時の白拍子たちの悲しい思いが、のぞき見えるようであります。(2002/8/19)