崇める時代

 ある宗教団体のキャッチコピーに、「二十一世紀は女性の時代です」というのがあります。このような言い回しは、どうも女性に諂っているようで、わたしはあまり好きではありません。

 確かに、これまで長い間、女性は社会の前面に出る機会が少なかったといえます。それが、ここ何十年かの間、日本女性のあまりの変わり様に、とまどいを覚えるのは、わたしだけではないでありましょう。近頃の若い女性は、不相応なブランドもので身を包み、あたかも娼婦のような風体で闊歩していると、海外の知識人からひんしゅくを買っているといいます。

 二十年程前のかなり古い資料なのですが、PHP研究所が、首都圏二十五才以上のビジネスマンを対象に、「日本が世界に誇れるもの」二十四項目の中から、三項目を選ぶという形式でアンケートを行いました。その結果は、一位「自動車」、二位「四季自然」、三位「エレクトロニクス」……と続き、二十一位「天皇・皇室」、二十二位に「日本女性」、二十三位「官僚制」、二十四位「政治」であったといいます。「大和撫子」という言葉が死語と化して、ここ久しいという状況にあります。

 そのような女性に対し、「二十一世紀は女性の時代です」と、媚び諂うことなぞ、毛頭ないとは思うのでありますが、女性に嫌われたら、何も出来ない時代ではありますので、誤解と、バッシングを恐れつつ、現代日本女性に対して、一言もの申す次第であります。

 仏典に、こんな話があります。

 釈尊が在世の時、代表的な僧坊として有名な、平家物語の冒頭にも出てきます祇園精舎を寄進したスダッタ(須達)長者という、富豪がいました。長者は、貧しい孤独な人たちに食を給したので給孤独長者とも呼ばれるほどの篤信家ではありましたが、息子の嫁にはほとほと困っていました。

 その嫁の名は、ギョクヤ(玉耶)といいます。貴族出身、容姿端麗、天女と紛うほどの美人だったといいますから、高慢で鼻持ちならなかったわけです。そこで、長者は、釈尊に諭してもらうよう依頼しました。その時の説法が『玉耶経』として残されています。

 釈尊曰く、そもそも女性は、三障十悪という、例えば、生みの親と生別せねばならない、分娩の苦しみを味わわなくてはならない、また、親・夫・子に仕えなくてはならないといった、不利な特性を持っている存在である、とまず諭します。

 そして、@母婦(母が子に対するがごとく夫を大切にする妻)A妹婦(姉に仕える妹のごとく夫を敬う妻)B善知識婦(夫をよく補佐し、援助する妻)C婦婦(控え目で、婦人としての徳を尽くす妻)D婢婦(冷遇されても、下女のようにひたすら仕える妻)E怨家婦(恨みのある家に来たような態度で口うるさく、夫を尻にしく妻)F奪命婦(汚れた心で、夫の命をも奪いかねないような妻)という七種の妻の話をされ、玉耶は、どの妻になろうとしているのか、と問います。

 さらに、五善三悪という、婦人が姑や夫に仕える心構えを説いて聞かせます。ただ、現代とはそぐわない面も確かにあります。しかし、笑殺するようなことだけはしていただきたくないのです。

 話は、少々違う方に逸れますが、最近、「地球にやさしい生き方を考えよう」といった類の標語を耳にすることが多くなりました。このことばを聞いて、妙に納得してしまっている人が多いのには驚かされます。実は、このキャッチコピーも、わたしはどうも好きになれないのです。

 人間が、大自然である地球にやさしくする――、何時から人間はそんなに偉くなったのでしょう。かつて、人間は大自然を畏れ、崇め、そして敬い、もっともっと謙虚に生きてきました。それが、自然を科学し、ちょっと知識を得たからといって、自然を見下すような、生意気な生き方をしていいものでしょうか。

 同じように、人間を科学した結果、生命の尊厳、神秘といったものが薄らいできているのではないでしょうか。このことと、女性が権力を行使しだしたことと無縁ではありません。生命の誕生は、単に、卵子と精子の結合によるものであるという理解だけでは、男女間、夫婦間、親子間で、お互いが尊敬しあい、信頼しあうというのはむずかしいことです。

 ですから、男が女が、民族がという次元ではなく、「二十一世紀は、人間同士が崇めあう時代」にならなくてはいけないでしょう。

(2002/6/18)