吉崎あれこれ

 平成十四年度のNHKの大河テレビドラマは、『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』であります。主人公の前田利家の出身は、尾張荒子(名古屋市中川区)なんだそうですね。知りませんでした。付近を通ると、このところ「前田利家出生地」の小旗いっぱい建っています。尾張名古屋とのつながり云々はさておき、加賀石川県、越前福井県あたりの北陸方面は、独特の文化を持っていて、旅してみると、自分自身内ではありますがいつも発見があり、何度も訪れたい地方の一つです。

 以前、能登輪島へ行ったとき、とても驚いたことがあります。各家々の仏壇が、表通りからよく見えるところに祀られていて、それが、とてつもなく立派なのです。それもそのはず、真宗中興の祖といわれる蓮如上人が、加賀との国境に近い越前の吉崎に道場(吉崎坊)設けて以来、本願寺門徒が強大な力をつけ、信長が現れるまでのほぼ一世紀に渡って、武士からの支配を受けない共和政体をとっていたといいます。その名残が、今も色濃く残っているわけです。

 そんな中から生まれた一つの伝説に『肉付きの面』があります。

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 福井県の吉崎から二里ほど南の十楽村に、与三次と清という農民夫婦がいた。

 夫婦は共に一生懸命働き、日が暮れると、毎日、蓮如上人の法話を聞きに吉崎へ通った。

 無信心な与三次の母は、それが気に入らなかったらしく、ある計画を練った。

 与三次は用事で一人外出し、妻の清が一人で吉崎へ行くところだった。母はこれを機と思い、十楽村の春日神社の氏神に奉納してあった鬼女の面をとって、白い帷子を着て、清の帰りを十楽村にほど近い断崖の上で待っていた。

 清が有り難い法話を聞いたその帰り、突然、断崖から鬼が現れた。鬼は「そこの女、母の言葉に改心すればその罪は許すが、改めなければ食い殺すぞ」という。

 だが清は「はまばはめ、食らわば食らえ、金剛の他力の信は、よもやはむまじ」と唱えて通り過ぎようとしたら、鬼面の母は怒り、清を谷底へ突き落としてしまった。

 だが、清は仏の加護のせいか、不思議にも怪我一つなく帰えることができた。

 一方、与三次の母は苛立ちながら鬼の面を取ろうとするが、面が顔の皮膚に張り付き、どう引っぱろうが、取れなくなってしまった。しかも、手足までも動かなくなった。

 無事家に帰った清は、母が不在なのを知ると心配になり、与三次と共に探しに出た。

 すると、先ほどで食わした鬼が立っている。だが、清も与三次もこれが母親だと分かり、母の手を取ると、「吉崎にいって未来の事を聞きましょう」と言った。すると今まで動かなかった手足も動くようになった。

 母は自分のした行為を恥じ、与三次と清の三人で蓮如上人の所へいき、事情を説明すると、「これ、婆よ、汝のような鬼のような悪人でも、阿弥陀如来様は見捨てぬぞ、一心に仏様を信じれば救われる」と上人は言った。

 やがて、嘘のように面は、顔から外れたという。母はこの時、夢から覚めたようになり、手を合わせて南無阿弥陀仏と唱えたという。

 上人は、母に「それ女人の身は、おとこにまさりて、かかるふかき罪のあるなり」という御文を書いて与えた。

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 この肉付きの面は、現在、なんと二つあります。大谷派(東本願寺)の願慶寺と、本願寺派(西本願寺)の吉崎寺であります。かつて蓮如上人が建てた吉崎道場(御山)のあったところに近い前者の方が、参詣者が多いそうです。

 その御山はというと、江戸時代はじめに、東本願寺が、福井藩の許可を得て御堂を建てようとしたところ、西本願寺が幕府に工事差し止めを求める訴えを行い、東西本願寺の争論となり、幕府の裁定は「吉崎に西方の門徒がいるのに寺再建の幕府への届けを怠ったのは東方の落ち度」「西方の門徒が大勢いるにもかかわらず、蓮如の法事を七十年来怠ったのは西方の落ち度」とし、いったん幕府の直轄地となり、明治以後は、東西の共有地となったということです。

 道場跡地は、現在公園化され、高村光雲が作った蓮如上人像が中央に建ち、国の史跡に指定されているとのことです。(2002/4)