南泉斬猫(なんせんざんみょう)

 明けまして、おめでとうございます。旧年中は、たいへんお世話になりました。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、昨年を振り返ってみますに、二十一世紀の幕開けということで、大いに期待されていたはずなのですが、後世の歴史教科書にもしっかり記述されるであろう、テロリストが操縦する旅客機による世界貿易センタービル破壊という、未曾有の大惨事がありました。そして、それに対する、アメリカのタリバン政権への報復戦争があり、さらに、それに波及してでありましょう、イスラエルとパレスチナが報復合戦の泥沼化という事態になっています。

 二〇〇二年への展望は、経済状態を含め、どうしても明るさが見えてきません。それに、同時多発テロ以降、気になることとして、コンピュータ・ウィルスの猛威があります。

 このところ、わたしのもとへも、連日のようにウィルス感染メールが何通も送られてきます。そのメールを開くと、パソコンの中のメールアドレス宛にウィルス感染メールを送りつけるというもので、あっという間に世界中に蔓延して現在に至っております。

 今回のウィルスの場合、被害としては、そんなに大きなダメージを与えるものではありませんが、インターネットへの恐怖心が生まれ、気持ちのいいものではありません。しかも、後から後から新種のコンピュータ・ウィルスが、何者かによって作られているようで、これも無差別に攻撃を加える、テロ行為といわざるを得ません。

 ここで、「南泉斬猫」という公案を紹介させていただきます。

 ある日、大勢の雲水が一匹の猫をめぐって争論していました。東西に分かれ、それぞれ自分たちの禅堂の飼い猫であると、所有権を主張しあっていたというのです。(ネズミの被害を防ぐための猫だったとの説があります。)

 そこで、南泉和尚が論争の輪の中に割って入り、問題の猫の首をつかんでぶら下げ、「ああだこうだ言っているが、誰でもよい、論争の余地のない、真実の一言を吐け。もし、それが出来なければ、猫は殺すぞ」と、すごい気迫でつめよりました。

 ところが、だれひとり声を発する者はなく、やむなく南泉和尚はこの猫を斬りました。

 その夜、南泉和尚の愛弟子であった趙州が外出先から帰ってきたので、昼間の出来事を告げ、「もし、その場にお前がいたら、何と答えるか?」と問いました。

 すると、趙州は、一言も答えることはせず、履いていた履を脱いで、自分の頭に載せて部屋を出ていきました。南泉和尚はそれを見て、「お前がいてくれたら、わしは猫を殺さずにすんだのだが」と、残念がったといいます。

 さて、この話は二本立てになっていて、第一は、南泉が猫を斬った意味、第二は、趙州の奇行とも思える、頭に草履を載せるという行為の意味を考えるのが、この公案のポイントです。

 この公案について、故山田無文老師(元妙心寺派管長)は、次のように語られています。

 「いつも脚に踏みつけておるものを、頭の上に載せただけのことである。常に踏みにじられておるもの、虐げられておるものを頭に頂かれたのだ。すなわち宗教者の本質である下坐の精神をすなおに表現されたものと思う。」(『むもん閑講話』)

 「わらじではない、一切衆生を頭の上に載せておる。全宇宙を頭の上に載せておるのだ。南泉が全宇宙をブチ斬ったのならば、趙州は全宇宙を頭の上に載せて生かしておる。(中略)南泉が猫を斬ったのは、人間の所有欲をブチ斬ったのだ。趙州が草履を頭上に載せたのは、身体も命も財産も皆さんのものです。お預かりものですよ、と載せたのだ。」(『碧巌録全提唱』第七巻)

 いかがでありましょうか。この度の同時多発テロ以降、いかほどの尊い命が奪われたことでありましょう。失われてしまった命は、もう取り返しがつきませんが、無駄死にに終わらせないためにも、皆で、叡智を出しあわなくてはならないでしょう。

 まず、ブッシュ大統領の頭に、草履を載せて考えてもらいましょうか。(2002/1)