悪についての認識

 人間の普遍妥当な価値として、「真」「善」「美」があります。それらを追い求めることが、人間の生き方の理想と考えることに、そう異論を唱える人はいないと思われます。ところが、一方で、それらの裏側には「偽」「悪」「醜」が必ず存在し、その扱い方の違いによって、宗教・哲学・倫理・道徳の違い、ひいては、人間性の違いが生まれてくるものだと考えます。中でも人間性を語る上で、重要なポイントである「善」と「悪」、特に、「悪」についての認識はとても大切です。

 「善」と「悪」とを比べた場合、当然、選ぶべきは「善」であって、「悪」は排除すべきものと考えがちですが、世の中、そう単純なものではないようです。

 極端な話、戦時中の価値観と、平和な時代との価値観は全然違いますから、人を殺すことが「善」となることだってあり得るわけです。それほど極端ではないにしても、一見、普遍的な「善」と思えることでも、結果として「悪」になる場合さえあります。

 こんな事例があります。

 あるアフリカの部族が、病気のため苦しんでいるということを知り、ヨーロッパのボランティア医療団体が救済の手をさしのべました。その甲斐あって、その部族は立ち直り、ボランティアは引き上げました。それから何年か後、ボランティアが訪れて愕然とします。その部族が、滅びてなくなっていたのです。原因を調査すると、人口が増えすぎて、食糧不足から来る飢餓のため、死に絶えてしまったというのです。

 また、これはアメリカ。福音主義的プロテスタンティズムに依拠する宗教的教化運動が発端となり、一九一九年に禁酒法が制定されました。これは、酒の醸造,販売,運搬を禁止した法律でしたが、ギャングたちによる密造、密売が横行し、かえって、多くの弊害が生じてしまいました。結局、一九三三年に、禁酒法は廃止されました。

 また、こんな話を、ある医師から聞きました。

 最近、アトピー皮膚炎に代表されるような、アレルギー体質の子が多くいます。いくつかの原因が考えられていますが、興味深い調査結果があるというのです。それは、アトピーの子どもは、幼児期に土いじりをしていないというのです。確かに、近頃の若い母親は、子どもの手がちょっと汚れただけで、ウエットティッシュで、アルコール消毒しています。そのような親子にとって、公園の砂場は、猫の糞なんかがあって、不潔極まりなく、とても遊ばせられないというわけです。

 つまり、幼児期に、清潔こそ第一と、雑菌から遠ざけてばかりいると、通常では考えられない、たとえば、卵とか米にまで過敏症反応を起こすようになってしまうというのです。

 以上のような事例から、人間が判断する「善」と「悪」の区別は、正しくないことが往々にしてあり、判断を誤った場合は、悲惨な結果を招くことにもなるといえます。ですから、注意すべきは、悪と判断したものを、徹底して排除しようとしないことです。「悪」は、必ずしも「悪」とはいえないし、仮に「悪」であったとしても、「悪」は「悪」として、存在価値があるはずだからです。

 仏教において、人生は「苦」そのものであるとの観点に立っています。それは、つねに「悪」との同居を前提としているからです。特に、浄土教において、「悪」の意識に重点が置かれています。

 たとえば、『歎異抄』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞聖人の悪人正機の思想では、善人よりもむしろ、悪人に対して、愛情の目が注がれています。

 親鸞聖人の師であった、法然上人においては、遊女に対して「(阿弥陀仏は)そなたのような罪深い人のためにこそ、慈悲深い誓願をお立てになられたのです。ただひたすら深く本願を信じ、決して自分を卑下することはありません。本願にすがって念仏すれば、疑いなく往生することができるです」と、必要悪の中でしか生きられない人にも、救いがあることを説いています。

 聖徳太子は、「世間虚仮、唯仏是真」といわれました。ただ仏のみが「真」であり、人間は、しょせん衆生、凡夫であり、愚かで、罪障深い存在であるとの認識こそ大事である、ということだと思います。(2001/12)