選別と平等

  予告どおり米国は、日本時間十月八日未明に、同時多発テロに対する報復攻撃に出ました。

 この事件を受けて、梅原猛氏が中日新聞のコラム『思うままに』(2001/10/15夕刊)で、「第三次世界大戦が始まり、人類の滅亡への広い門が開けられたと後の人類の歴史に記録されるに違いない」と述べられています。

 その後、全米各地で、炭疽菌を郵便物で送りつける生物兵器テロが起こっており、さらには核兵器によるテロも危惧されており、梅原氏の予測が、次第に現実味を帯びつつあります。

 しかし、米国のとる行動には、良くも悪くも迷いというものがないように見えます。そんな人類の危機を孕んでいるにもかかわらず、米国の「われわれに付くか、テロに付くかだ。従わなければ、テロ側と見なし容赦なく討つ」という、あの強硬な姿勢はどこから来るものでありましょうか。

 その答えを探るべく、野村文子氏の、次なる記述を見つけました。――

 十七世紀前半ヨーロッパを脱出して新大陸へ移住したピューリタン(清教徒)が、自らの経験を『旧約聖書』の故事になぞらえてエクソダスと解釈し、自分たちは「ピューリタン・エクソダス」を実践し、神意の下にある選民であると考えた。エクソダスとは、離郷・出国を意味し、固有名詞としては、『旧約聖書』の第二書、「出エジプト記」のこと。神の啓示を受けたモーセがイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出、途中、神が数々の奇跡を行い、モーセを救ったとされる神話である。《中略》当時、「神の意志こそが、あらゆる出来事の第一番目の原因」であったのであり、出エジプトとピューリタンのニュー・イングランドへの脱出とが類似の物語とみなされたことも当然であろう。以後、アメリカ史において、国家が危機に直面したとき、指導者はピューリタンの使命感に国家の存在理由を求める。リンカーンが、南北の対立が悪化したとき、人々に「愛による結束」を訴えたのも、神意の下に建国された国アメリカは、「全世界の、最後で最善の希望」であるがゆえに維持されねばならないと考えたためである。一九六一年の大統領就任演説のなかで、三か所も神に言及したことで知られるケネディなど、現代の指導者たちの重大な政治決定にも同様の感情がみいだされる。――

 なるほど、ブッシュ大統領がテロと断固戦うという姿勢も、イスラム原理主義のタリバンが、これはジハード(聖戦)だという頑なな姿勢も、それぞれの神、イエス、アッラーへの信仰の証であるということになります。

 啓示宗教に慣れない日本人にとって、この辺りのことは、なかなか理解されにくいところです。そこで、別の観点からのキリスト教徒の側面を探ってみましょう。

 ひろさちや氏によれば、キリスト教には、生命をランクづける、「選別」の思想があるといいます。たとえば発展途上国援助に行った欧米のボランティアの人たちは、援助を求めてやって来る人々を、@援助の手を差し伸べても死ぬ・A援助すれば助かる・B援助なしで自力で助かるといった三グループに分けて、援助をしても死ぬ人間には絶対に援助しないといいます。そうでないと、援助の効率が落ちるからです。ところが、日本人のボランティアの人々には、この「選別」ができないので、死ぬにきまっている人々になけなしの食糧を与えてしまいます。この点、日本人ボランティアは欧米人から非難されるというのです。

 ボランティアという行為自体が、キリスト教徒にとっては、自分が神から託されているものであり、当たり前のこととしてとらえていますから、日本人が考えているような、普通の人にはなかなかできにくい善行という意識はありません。

 このように、キリスト教徒が、神意の下にある選民として生きる方法は、明解で、迷うところがありません。ところが、「選別」によりはずされたものは、徹底排除されます。とくに、悪とレッテルを貼られたら最後、救いはありません。

 確かに、キリスト教は、すばらしい宗教ではありますが、世界平和という観点からすると、欠陥があるといわざるを得ません。

 この点で、一切に仏性を認める仏教の「平等」の思想こそ、梅原氏がいわれる「このおぞましい戦いが終わったときのための、人類の生きるべき道を示す思想」になりうるのではないでしょうか。 (2001/11)