室津の遊女

 当山の江崎十一面観音菩薩がおまつりしてある上部に、彩色壁画(縦八〇a×横二六〇a)があります。これは、『法然上人行状絵図』の第三十四巻の挿し絵図を、現住職が仏画師に拡大模写してもらったものです。

 『法然上人行状絵図』全四十八巻(国宝・知恩院蔵)は、浄土宗の開祖法然上人の伝記絵巻です。示寂後約百年に完成し、それまでの法然上人絵伝のみならず、絵巻の歴史上でも最大の規模を誇ります。

 この絵図の後半第三十三巻から、すなわち、上人の晩年になりますが、流罪に遭われたときのことが描かれています。建永二(一〇二七)年二月、弟子の住蓮・安楽が、後鳥羽上皇の女官を出家させ、そのことが上皇の逆鱗に触れ、二人は死罪、法然上人は、土佐(高知県)へ、実際には讃岐(香川県)に流罪となりました。上人、七十五歳のときでした。

 翌月十六日に都を離れることになるのですが、熱心な帰依者であった前関白の九条兼実が、次の申し出をされたということです。

 「土佐国(高知県)といえば、あまりにも遠いところである。讃岐国(香川県)なら、幸いわたしの領国であるから、そこに留まっていただきたい。」

 そして、上人に送った手紙の中に、次の歌を添えられました。

  ふりすてゝゆくはわかれの
  はしなれどふみわたすべき
  ことをしぞおもふ

 【このわたしをお見捨てになられ、長い旅にお出ましになることは、今生の別れとなるはじめなのでしょうが、何としてもお便りだけはして、赦免のはし渡しをしたいと思っています。】

 上人のお返しになった歌が、あの有名な

  露の身はこゝかしこにて
  きえぬともこゝろはおなじ
  花のうてなぞ

 【尽きぬなごりではありますが、おくれ先だつ習いは世の常なのです。草葉の露のようにはかない私たちのいのちなのです。どこで死を迎えるにしても、ともに浄土でお会いしようという思いにかわりはありません。】

であります。

 そして、讃岐へ渡る途中でのことでした。(以下、大橋俊雄現代語訳)

 播磨国(兵庫県)の室津にお着きになると、小船が一艘、上人の船に近寄ってきたが、見ればその船はこのあたりに住む遊女の船であった。遊女が、

 「近ごろ京で名高い法然上人が、瀬戸内海を下って来られるということをお聞きし、押しかけてまいりました。生活する方法にはさまざまありますが、私たちは前世にどのような罪を犯したために、このような身となったのでしょうか。罪としては重いということですが、この罪の重い私たちは、どのような仏道の勤めをすれば後の世に救われるでしょうか、お教えいただきたいものです」
と申すと、

 上人は、ふびんに思われ、

 「思えば本当に、そのようなことをして暮しを立てておられることは、罪のさわりが重いといえましょう。それによっての報いも、また推しはかることができません。もし、このような生業をしないでも、生活する手だてがあれば、早くそのような生業をお止めになることです。もしこのほかに方法もなく、またいのちをも心にかけないほどの強い悟りを求める心が起きなかったならば、かまいませんから、現在の境遇のままで、ただひたすら念仏を申しなさい。阿弥陀仏は、そなたのような罪深い人のためにこそ、慈悲深い誓願をお立てになられたのです。ただひたすら深く本願を信じ、決して自分を卑下することはない。本願にすがって念仏すれば、疑いなく往生することができるのです」

という旨を、ねんごろにお説きになったので、遊女はあまりの有難さに涙を流して喜んだ。

 そのあとのこと、上人は、

 「この遊女は信心が確かであるから、必ず往生するであろうぞ」
と申されたという。配所から都へ帰られたとき、ここで遊女のことを思い出し、その後のことを尋ねると、付近の人が、

 「上人のお教えをお聞きしてからというもの、ここから近い山里に住み、ひたすら念仏しておられたが、それほどたたないうち、いまわのとき心やすらかに、往生の望みを果たしました」

と言われた。これを聞き、

「きっと往生したであろうぞ、往生したであろうぞ」
と申し、お喜びになられた。
(2001/8)