白馬は馬に非ず

 よくご存じかと思いますが、「ハンディキャップ」ということばがあります。「ハンディ」「ハンデ」と、略して使うこともよくあります。そのことばの意味は、

@競技などで、力を平均化するために、すぐれた者に課する負担。
A他に比べて不利な条件。「―を克服する」

ということでありますが、元来は競馬用語なんだそうです。

 強い馬に負担重量を大きく与えることによって、どの馬にも勝つチャンスを与え、ゲームとしての競馬の興趣を盛り上げようとするものだということです。他に、ゴルフ・自転車競技・陸上競技など、ハンディキャップを設ける競技やゲームはいくつかあります。

 一方、囲碁・将棋・連珠(五目並べ)・相撲などには、それを用いると反則負けになるという「禁じ手」というのがあります。囲碁の同型反復(コウ)、将棋の二歩・打ち歩詰め、連珠の三三、相撲のこぶし打ち・向うずね蹴りなどといったものです。

 これら、「ハンディキャップ」や「禁じ手」は、だれもが、それこそ同じ土俵で、公平に競技やゲームを楽しめるようにとの配慮から生まれたものと思われます。ところが、一歩、競技やゲームの世界から離れてしまうと、このような配慮は、悲しいかな、ないに等しいというのが現実のようです。強い者が勝って当然、しかも、たとえ禁じ手であろうが、勝つためなら手段を選ばないというのが、現実の競争世界のようです。そして、この競争原理は、個人と個人、広く、国と国との関係においても同様なことがいえそうです。

 豊かで平和であることを望まない者はいないと思われますが、経済状態が悪くなってきますと、そうはいきません。失業者が増え、犯罪が横行し、治安は乱れ、社会の中で不平不満が鬱積してきます。そんな時に、為政者は、禁じ手である戦争という手段を使うということが、これまでの歴史の中で、たびたびありました。

 最近の事例である一九九一年に起きた湾岸戦争も、その後の米国の経済状態が急速に良くなったところを見ると、そのあたりを見越しての戦いであったのでしょうか。当時、総額百三十億ドル拠出を余儀なくされた日本は、それに呼応するようにバブル経済が崩壊し、以降低迷し続け、現在に至っております。

 あれから十年、麻薬か媚薬か分かりませんが、その効用がこのところ切れてきたようです。米国の株価暴落に連動して、欧州、日本でも株価が下落し続けています。恐慌が懸念されています。今度は、どんな手を打ってくるのでしょうか。気に掛かるところです。

 ところで、「白馬は馬に非ず」という、中国の戦国時代の公孫龍が唱えた白馬論というのがあります。概略はこうです。

 白馬という概念は、色彩感覚によってとらえられた「白」と視覚(形態感覚)によってとらえられた「馬」とに分析できるから、白馬(白+馬)は馬ではない。また馬という概念には黄馬も黒馬も含まれるが、白馬という概念には黄馬、黒馬は含まれない。ゆえに白馬は馬ではない。(『ブリタニカ』)

 この白馬論は、「年をとるのは年をとっていない者である。ゆえに、年をとった者は若者である」といった論理と同じ、詭弁の例として有名です。このような詭弁は、平和で、物事を冷静に考えることが出来るときは、簡単に見破ることが出来ますが、ハンディキャップを負っているときなどでは、「白馬は馬に非ず」の論理を押し通されてしまうことが間々あります。

 「戦争は悪に非ず」ということを証明するために、持ち駒をたくさん持っている国は、いろいろな詭弁を弄してきます。ところが、一方で、持ち駒を全く、あるいはほとんど持たない国が、さらなるハンディキャップを背負ったとき、とんでもない禁じ手を使って白馬論をかざしてきます。この度の、アフガニスタンを実質支配するイスラム原理主義勢力のタリバン政権による、バーミヤン仏教遺跡の破壊は、まさにそれではないでしょうか。たいへんな世界遺産を失い、本当に残念なことです。

 仏教では、真実を導き出すまでの、いろいろな手段や方法のことを方便といいます。この方便と詭弁とは、方法論としては似てなくもありませんが、決定的に違っているところは、そこに、慈悲の心があるかないかです。個人と個人、国と国の間にも、この慈悲の心がぜひとも欲しいものです。(2001/04)