龍を好む

 二月十五日の中日新聞の朝刊に、《消費社会の功罪背負うコンビニ》〈誕生から三十年 五万店突破〉の見出しで特集が組まれていました。

 コンビニエンスストアは「便利さ」を追求してきた結果、生まれ出た店舗形態であります。しかし、便利であるが故に、これまで、母親が愛情こめて作っていた弁当やおやつの「おふくろの味」が、「お」のなくなった、「ふくろの味」でしかなくなってしまったのでは、何とも味気ないことであります。

 最近社会問題化している、「キレる若者・幼児虐待する若い親」などは、まさにコンビニ世代であります。それで、記事にも載っていましたが、無表情で殺伐とした雰囲気になりがちなコンビニを、昔のよろず屋さんのように、世間話のできような雰囲気作りに努め、コミュニケーションを大切にしていこうという動きも出てきているようです。やはり、人間、心の触れ合いがないといけないということでしょう。

 さて、私ども、今という時代を生きているわけですが、それがどういう時代でどのような状況なのか、分かっているようで、案外分かっていません。現実には、毎日のようにいろいろな出来事や事件に遭遇し、ある時は憤慨し、ある時は呆れかえり、ある時は感動の涙を流してはおりますが、多くの人たちは、ただ、それだけです。

 中国の古典の解説書を読んでいたら、「燕雀、屋に処る」という言葉を見つけました。出典は『呂氏春秋』です。小さな鳥である燕や雀は、家が燃えていても、屋根でのんきに構えているという状況をいいます。

 米軍原子力潜水艦の無謀な急浮上によって、宇和島水産高校の実習船が、ハワイで沈没したとの報が入ったにもかかわらず、のんきにゴルフをし続けていたり、国家財政が、累積赤字で火の車であるにもかかわらず、大量の国債を発行して帳尻を合わせ、のほほんとしていることをいうのでしょうか。別に、皮肉をいっているわけではありません。われわれ燕雀の類である小人には、所詮、時代の流れの全体を見ることはできないということです。

 では、「大人たる良き指導者を」、と望むのは必然の成り行きですが、ことはそう簡単にはいかないようです。

 「葉公子高、龍を好む」という言葉があります。出典は『新序』です。「葉公」とは、葉という邑の長官ということです。「子高」は、あざなで、姓名は沈諸梁といいます。彼は、龍が好きで、絵も龍を写し、彫り物も龍を写し、屋根や室内の彫り物もすべて、龍の写しでありました。それで、天上にいる龍が、その噂を聞いて、葉公の家まで降りてきました。龍は窓から頭をのぞかせ、尾を奥座敷に引きずりました。思いもよらぬ本物の龍を見た葉公は、仰天をし、失神しそうになり、あたふたと逃げ出そうとしたというのです。

 これは、葉公のニセ君子ぶりを嘲笑した話からきているものですが、小人であった葉公は、龍を好むといいつつ、龍に似た、「似非もの」を好んでいるに過ぎなかったというわけです。いざ、本物の大人、指導者に出くわすと、思わず退いてしまうのが、小人の常であります。

 モンゴル朝初期の政治家に、耶律楚材という人がいました。耶律氏は遼の王族の出身で代々金に仕えていました。彼は、モンゴル軍が燕京(北京)を占領したとき、チンギス・ハーンに降ってその政治顧問となり、また、次に帝位についたオゴデイ・ハーンにも重用されたという人物で、次のようにいっています。

 「一つの利益を得ようとするなら、一つの害悪を取り除いた方がよい。新しい仕事を一つ増やすなら、古びて役に立たない仕事を、一つ減らした方がよい。当たり前なことかもしれないが、中国人が千年もかかって築いてきた智恵には、動かしがたい道理があるのだ」と。

 コンビニの歴史は、たかだか三十年、人の一生、長くて百年であります。何千年に渡って培われてきた英知に学ぶべきことは多いといえます。

 現在の学校教育では、『論語』『孟子』などは、高い棚にしまい込まれたままですが、埃をはらい、折に触れ、開き見たいものです。日本人には、仏教・論語が肌に合うようです。 (2001/03)