2001年の旅

 二十一世紀が始まりました。で、最初に飛び込んできたのが、東京世田谷区の一家四人が自宅で惨殺されたという事件でありました。夫・妻・小二の娘の三人は包丁で、園児の息子は首を絞められて殺されたという、思わず目と耳を塞ぎたくなるような事件です。
 事件そのものは、十二月三十日の夜に起こったようですが、新聞が休刊であったせいもあり、記事が掲載されたのは元日の朝刊でありました。犯行現場は凄惨を極め、首と顔をめった刺しにされ、血の海だったといいます。十七日現在、まだ犯人は見つかっていません。その残忍な犯行手口から、怨恨説が有力視されています。早く犯人を見つけてほしいものです。

 ついで、一週間を待たずして、六日に衝撃的なニュースが入ってきました。仙台市の「北陵クリニック」に入院していた小六の少女の点滴に筋弛緩剤を混入して殺害しようとしたとして、同クリニックの元准看護士守大助容疑者が殺人未遂の疑いで逮捕されたというものです。以前から、守容疑者の点滴後に死亡するケースが頻繁にあったといい、これからの取り調べで明らかになるでしょうが、なぜ医療機関でこのようなことが起きたのか、耳を疑うような事件であります。

 さて、年明け早々、二十一世紀の初め、立て続けに起こる事件・犯罪に対して、これからの日本の将来を危惧される方も多いのではないかと思います。実は、私もそう思った一人なのですが、よくよく考えてみると、それは当たっていないのかもしれません。

 映画史上に残る傑作と評されるスタンリー・キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』の冒頭において、人類の「道具」が骨から宇宙船にまで進歩したことを象徴的に表現したシーンがあります。

 なぞの黒い石板モノリスに知恵を与えられた類人猿が、骨を手にして、まず手近の骨を砕き、獣を、そして対立するグループの首領を殺し、雄叫びをあげ、その骨を投げあげると、それが宇宙船に変貌するという印象的シーンです。

 一瞬にして四百万年前の原始の時代から二〇〇一年にジャンプする、このシーンは、「人類が手にした道具(例えば骨・宇宙船)の本質は、人殺しの道具である」ということを示唆しているとの見方があります。恐ろしい指摘です。

 確かに、これまで人類は、権力のため、あるいは憎み妬みのため、あるいは食うために、あるいは単なる好奇心で、殺戮・虐殺が繰り返され、どれほどの人たちが犠牲になってきたことでしょう。人類の歴史は、人殺しの歴史であったといえなくもありません。悲しい事実です。

 ところで、もう一つ、一月八日、鳥取県米子市の博愛病院で、生後間もない赤ちゃんが連れ去られる事件がありました。幸い、赤ちゃんは六日後の十四日に無事保護され、犯人として、二十九歳の女性が逮捕されました。「付き合っている男性との間に子供が欲しかった」というのが、犯行理由だったようです。

 子供を連れ去られたご両親にしてみたら、そのショックは大変なものであったでしょう。断固許される行為ではありません。しかし、誤解をおそれつつ申しますが、このニュースを聞いて、ある種の感じ入るものがありました。先の二つの事件が、あまりに非人間的な犯罪でありましたので、この女性に人間臭さを感じたからです。自分に振り向かせるために、妊娠を装い、腹に帯を巻いていたといい、むしろ、女性の悲しい性を哀れに思います。

 ともあれ、人類と犯罪は、切っても切り離せない関係にあるのは事実で、そのことにどう対処していくかが問題のようです。

 釈尊が、アングリマーラという殺人鬼を改心させて、教団に入門させたときのことです。

 彼が托鉢に出ると、街は、パニックに陥りました。一人の妊婦は、驚きのあまり、産気づいて苦しみました。釈尊は彼に、「私は生まれてからこの方、一度も殺生をしたことがない。このことが事実ならば、汝は安らかに産むであろう」と語るよう諭します。「私は、九十九人もの生命を断ちました。」「汝が道に入る前は、前世である。生まれて以来ということは、道に入ってからという意味であるから嘘ではない。」釈尊の教えに従い、はたして、妊婦は安らかに産みました。

 罪に対しかくあれば、二〇〇一年の旅も平和なのでしょうが…。(2001/02)