苦悩の紐

 十月十五日の日曜日の夜、京都の本山で随身している息子から、弾んだ声で電話がかかってきました。なんでも、ベルギーのアストリッド王女様がお忍びで京都に遊びに来られ、永観堂にも立ち寄られたというのです。実は、その日、息子は本山から休みをいただいて遊びに行くつもりだったのですが、王女様がいらっしゃるということを聞き、急きょ遊びは取りやめて、接待することになったらしいのです。なんでも、「王女様に、御抹茶を点てて差し上げた」というのです。それを聞いて、私も、嬉しくなりました。

 本山での随身というのは、朝五時半に起きて、掃除、勤行、雑用と、寝るまで暇さえあればこき使われ、一方、学生の本分である勉強もせねばならず、しかも頭は丸刈りで、そう楽に勤まるというものではありません。実際、息子が随身に成り立ての頃、毎日のように私の所へ電話がかかってきて、待遇のこと、人間関係のことなど、なんだかだ、不満とも、弱音とも分からんようなことを随分いってきたものでした。それが、今では、随身を楽しむまでになってきたことが、親として、とても嬉しく思えるのです。

 私たちは、同じような状況下にあっても、それを「苦」と受け取る場合もあれば、「楽」と受け取る場合もあるものです。

 たとえば、ピアノの音を、美しい音楽と聞ける場合と、騒音としてしか聞けない場合とがあります。騒音としてしか聞けないときは、往々にして心に余裕のないときでしょうし、その人自身の懐の狭さに起因するということもありましょう。ですから、世の中に出くわす苦痛や苦難に対しては、自分自身の心の持ちようや対処の仕方で、外的要因から来る苦痛のようなものは別ですが、殆どの場合、いかようにもなるといっても過言ではありません。

 苦悩するのは、大人たちだけではありません。小中学校で、不登校の児童生徒が近年多くなって、問題になっています。陥りやすいパターンは、不登校気味の状態になると、親も先生も、もちろん当事者である本人も、その苦悩であたふたし、三者全部が心身ともくたびれ果てて、結局、長期不登校で落ち着いてしまうという状況です。私が教員をしていたときにもあり、悩み苦しみました。しかし、私もある程度ものが分かる歳になり、生活の中からわき出てくる苦しみは、自分自身の未熟さからくるものであることに、この頃やっと気がつきました。

 泳げない者がプールに投げ込まれたら、それこそ死ぬほど辛い苦痛を味わうに違いありませんが、泳ぎ方を知っている者であれば、それほど苦痛と感じることはないでしょう。それと同じで、不登校の児童生徒は、泳げないで苦しんでいるわけですから、親が初期の段階で愛情こめて救い出してあげることができれば、解決の糸口は、案外簡単に見つかるものです。ところが、親の中には、何も出来ずにおろおろするだけであったり、泳げない子を叱りとばして、溺れる子を沖の方へ突き放す親までいたりして、問題をより複雑にしている場合が多いものです。

 子どもがまだ小さく、訳も分からず、ともかく子育て一生懸命の頃、公園などで他の子からいじめられようものなら、その子を反対に叩いて泣かせてしまったり、その子の親に食ってかかったりしたことはなかったでしょうか。少なくとも、我が子が義務教育を終えるまでは、そのくらいでちょうどよく、外敵には、がむしゃらに向かっていく姿勢が大切です。子どもは、体を張って自分を守ってくれる親がいるというだけで、苦痛は和らぎ、安心できるものです。

 不登校になる原因は、子ども自体は、いじめられるからとか、勉強が面白くないからとか、いろいろ理由付けはしますが、私がこれまでに見てきた事例から判断すると、「親が無関心」、「親子関係が険悪」、あるいは、「親子と教師の関係が険悪」という三つに集約されるようです。

 親が無関心というのは論外ですが、親子関係の悪化というのは、とりもなおさず親の未熟さにほかなりません。ですから、親が自覚し、懐深く愛情もって子どもと接すれば、問題は解決します。やっかいなのは、教師に矛先を向け、その関係が悪化することです。当面の敵は誰なのか、あるいは自分自身なのか、そこの判断を間違えると、簡単にほどけるはずのものが、こんがらがってしまいます。

(2000/11)