『禁忌(タブー)』

 「タブー」という言葉から、何を連想されますでしょうか。

 ドリフターズの加藤茶が、例の「ちょっとだけよ」といってポーズをとるときに流れている、あの悩ましげな曲の名が、確か『タブー』でありました。また、おぼろげな記憶の中に、香水にもそんな名の商品があったと思い、インターネットで調べてみましたら、ありました。ダナパヒュームというブランドの商品で、最近では、新しいヴァージョンの『ドリームズバイタブー』の方が主力のようですが、その宣伝文句たるや、凄いです。

 香りは目に見えないメッセージ。女性がここぞという時に、男性をその気にさせる《隠れフェロモン》な香りは、さりげなく女らしい印象。やすらぎ感を与えてくれるほのかな甘い香りは男の子にも人気。『Ray』の誌上アンケートで社会人の男性が選ぶ「女の子につけて欲しい香り」一位に。

 いかがでしょうか。でも、こんな事例ばかり挙げていきますと、「タブー」という言葉に対しての誤解が生まれそうです。

 『岩波国語辞典』をひもといてみましょう。

 ふれたり口に出したりしてはならないとされているもの。禁忌。おかすことが禁じられている、神聖または不浄な事物・場所・行為・人・言葉の類。「すべるは受験生に―の言葉」▽taboo(=禁ぜられた、の意のポリネシア語から出た英語)、とあります。

 「ちょっと……」の曲は、黒人奴隷が白人女性との恋を想像しつつ、一方ではそれをタブーであると自らを抑えつける、実は、悲しい歌なんだそうです。この頃では、「タブー」は、宗教性のない場面での日常会話にもよく使われるようになりましたが、一七七一年にキャプテン・クックがトンガ人の言葉として記録したのが最初だそうで、本来は宗教学や文化人類学などの専門用語として使われていました。わたし自身、この言葉と初めて出会ったのは、アニミズム(精霊崇拝)とか、シャーマニズム(宗教的職能者を中心とする宗教形態)などといった宗教形態を学習する中ででありました。

 日本では、ふつう「禁忌」と訳されていますが、「忌(斎)み」や「物忌み」という言葉も似たような意味を持っています。このような慣習は、世界中広く認められるといい、阿部年晴氏は次のように定義されています。

 ある事象(事物・人・行為など)を、感染性の危険を帯びているとみなして、それに触れたり、さらにその行為をしたりすることを禁じる規則をタブーと呼ぶ。タブーを侵犯した者は、自分自身が災厄に見舞われるだけでなく、自分の周囲の人々や共同体にも災厄をもたらす――と。

 たとえば、身内に不幸があると、忌みがかかっているといって公的な席に出るのを遠慮したり、身が穢れているからと、神社の鳥居をくぐらなかったり、他家の葬式に参列した場合でも、自分の家に入る前に塩で身を浄めて家内に忌みがかからないようにしたりします。また、死によって火が穢れるということもいわれ、そのような火で調理したものを食べることは、「合火を食べる」といって、これも禁忌とされます。

 『古事記』によると、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火神を産んだとき、火傷を負って死にます。夫である伊弉諾尊(イザナギノミコト)は、黄泉国まで追っていきますが、膿がわき、蛆がたかっているおぞましいその姿を見て逃げ帰り、穢れを祓うため禊をしたという記述があります。このように神代から、死の穢れに対しては、特に忌み避けるものとしての意識が、濃厚に伝えられているといえます。

 かつて、穢れには、死穢(黒不浄)・血穢(赤不浄)・産穢(白不浄)の三つがあるとされました。血穢は女性の月々の生理、産穢は出産によるものですから、女性は、この赤・白の不浄を持つことで、罪障深い存在であるとされていた時代が長くありました。

 それが、第二次大戦後、禁忌(タブー)の意識は、宗教性が薄れ、形骸化あるいは排除されてきております。しかし一方では、建築工事の前には必ず地鎮祭を行い、冠婚葬祭には、大安・仏滅・友引といった六曜を選ぶといったことは、いまだ根強く残っています。

 「忌みの精神」は、消極的にしか関わらないのであれば、単に忌み避けるということにしかなりませんが、積極的に聖なるものとの関わりを持とうとしたとき、庶民の勤労観の支えとなり、道徳の根幹をなすほどの力となるとの指摘(『宗教以前』)があります。

 科学の進んだ今日、迷信めいたタブーは次第に排除されていきましょうが、タブーのない社会は、無秩序にならざるをえないでしょう。最近の若者の荒んだ精神は、このタブーと無関係ではないように思えます。せめて、お父さん族の一人として、「敷居はお父さんの頭と同じだから踏んではいけない」あたりは、ぜひ残しておいて欲しいタブーのひとつです。

(平成12年6月)