『一番始めは一宮』

 最近なんとも衝撃的であったのは、中学校を今春卒業した少年が、同級生らのグループから約五千万円を脅し取られていたという事件です。発覚するや、これまで何も出来なかった、何もしなかった学校と警察に対する非難、一方でそれに対する責任転嫁と言い訳という、不祥事といえば判で押したように、いつもの図式が展開されております。そして、この衝撃的な事件ですら、また、きっと、新たにあっと驚くような事件が起き、いつの間にか曖昧模糊として忘れ去られていくのでしょうか。

 なぜに、子供たちの心は、こんなにも荒んでしまったのでしょうか。だからというわけでもないでしょうが、子供たちの口から、宇多田ヒカルの歌を聞くことはあっても、昔ながらの童歌を聞くことが出来なくなってしまって、ここ久しいような気がいたします。

 わたしは昭和二十三年の戦後生まれですが、いまだに歌える童歌がいくつかあります。ある年代の方ならたいていはご存じ、というものもあれば、ごく限られた地域的なものもあれば、男の子あるいは女の子の間でしか歌われなかったというものもあります。

 そんな中、記憶の中でいちばん古い童歌は、「一年ぼっこ何習う、弁当箱たたいて箸習う」と「白鳥学校ぼろ学校」があります。「白鳥(しろとり)」というのは、わたしが通っていた白鳥小学校のことです。

 いちばん最初に耳にしたのは、「かいぐりかいぐり、しったらしったら、おつむてんてん」あるいは「かいぐりかいぐり、とっとのめ、とっとのめ」とか「糸巻き巻き、糸巻き巻き、引いて引いてトントントン」あたりではなかったかと思われます。ただ、これらは、あまりに小さかったせいでしょうか、当時の記憶として留まることはなく、自分の子が出来て、改めて覚えなおしたというものです。

 遊びの中で歌われたものもいくつかあります。「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ、笑うと負けよ、オッププのプ」とか、長縄を使った大勢でやる縄跳びのときの「大波小波、くるっと回って、はや回し(遅回し)」とか、どちらかといえば、女の子向けで、実際にやったのは数えるほどもない「かごめかごめ」や「通りゃんせ」や「はないちもんめ」は、どのようにして遊んだのか、今一つはっきりと覚えていません。お手合わせ歌の「せっせっせ、ぱらりこせ」や「おちゃらか」、縄跳び歌の「お嬢さんお入り」やスカートのひらひらをパンツに挟みこみ、輪ゴムで編んだ縄をからませて華麗に躍るようにして跳ぶときにも、また、お手玉をやるときにも、確か何か歌っていたようですが、思い出せません。

 男の子だけでやった遊びの中での歌は、あまりなかったような気がします。せいぜい「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」ぐらいでしょうか。ただ、当時、馬跳び(馬乗り)が全盛の時代で、これに歌と言えば言えなくもないものが付いている遊びがありました。

 ジャンケンで負けた一人が馬になり、順番に跳ぶのですが、最初の跳び手は、「○○はぁじめ」といって跳びます。「○○」のところは、何が入ってもよく、例えば、「お寺の鐘」であれば、馬跳びをした後、馬になっている子のお尻を、「ゴーン」と言いながら叩くわけです。後に続く跳び手は、それと全く同じ動作をしないといけません。「お寺の鐘」のような簡単なものであればいいのですが、だんだんと複雑なものになっていき、間違えると、馬にされるというわけです。

 馬にされて、いちばん嫌な「○○」は、何といっても「大砲」でした。「ふた開けて、掃除して、弾つめて、火薬入れて、ふた締めて、火つけて、シュリュシュリュシュリュ、ドッカーン」と、お尻のあたりをモソモソやられた後に、思いっきりお尻をひっぱたかれるとあって、これには閉口したものであります。

 ともあれ、戦後の高度成長以前までの子供たちは、遊びに歌に、それぞれ創意工夫をして楽しんでいたように思います。ですから、同じ童歌でも、いろいろなバリエーションがあり、同世代の人に聞いても、微妙に違っていたりして面白いです。

 最後に、尾張から発信して全国に広まったという「一番始めは一宮、二は日光東照宮、三は佐倉の惣五郎、四は信濃の善光寺、五つ出雲の大社、六つ村々鎮守様、七つ成田の不動様、八つ八幡の八幡宮、九つ高野の弘法さん、十東京の泉岳寺」あたりが、また歌われる時代になってほしいものです。(00/5)