『介護保険とリサイクル』

 最近は、いやな事件が相次いでおります。公人の汚職・不祥事、しかも、警察官、政治家、教師、宗教家といった、本来信頼されるべき人たちが、週刊誌ネタになるような恥ずかしい事件を起こしているのは、何とも情けないことです。

 また、先頃、東京の地下鉄では、設計ミスか、整備不良かそのうち明らかになるでしょうが、多数の死傷者を出した脱線事故があり、そして、まだ記憶に新しい、ウラン燃料加工工場の臨界事故、さらに、人工衛星打ち上げロケットの相次ぐ失敗、やはり、日本全体が、このところ、タガがゆるんでいるに違いありません。凶悪犯罪や怪奇な事件も多々起こっており、この頃では、よほどのことでない限り、驚かなくなっている自分が、恐ろしくさえあります。

 おそらく、百年後の歴史家は、平成という時代を、「現場からかけ離れたキャリアと呼ばれる一握りの人たちによる腐敗した時代」と評するのでしょうか。

 今自分たちが生きている時代が、腐敗しているなんて思いたくはないのですが、とんでもない厚底靴をはいて、白い口紅に白いアイシャドー、靴墨を塗ったような顔黒の若い女性が、媚を売り売り闊歩しているさまは、とても健全な時代とは思えません。

 こんな時代に、いや、こんな時代だからこそ「介護保険制度」なるものが、四月一日から本格的に動き始めます。これまでにも、個人レベルで行う民間のものはありましたが、大きく違うのは、「高齢期の最大の不安である介護を、社会全体で支えよう」という理念で始められるということです。その概要は、各市町村ごとに、申請・訪問調査・要介護認定等の手順を経て、認定基準に応じた、訪問介護・デイサービス・住宅改修費の支給等の各種サービスが受けられるというものです。

 福祉国家の誇るべき制度として、この法案を通した政治家たちは胸を張っていることでしょう。しかし、福祉という美化された言葉の裏側にあるものも考えてみる必要があるのではないでしょうか。ひょっとすると、この制度は、日本のこれからの精神文化を根底から変えていく端緒となるのかもしれません。今後、「親孝行は美徳だ」と思う若者が、次第に少なくなっていくことでしょう。

 親は、定年になれば年金でそこそこ暮らしていけるし、老いて動けなくなったとしても、介護保険で面倒見てくれるし、手続きに少々手間取ることはあったとしても、子どもの出る幕はせいぜいそのくらいで、後は他人任せで済んでしまうわけです。

 ここまでくると、ひょっとして、「育児保険」なるものまで出てくるかもしれません。子育てできない親がいっぱい増えてしまって、資格を持った乳母に育ててもらおうというわけです。親の幼児・児童虐待のニュースが、頻繁に報道されるのを見るにつけ、聞くにつけ、ふと、そんなことまで考えてしまいます。

 肉親とはいったいなんだろうか。家族とはいったいなんだろうか。あるのは物欲と性欲だけで、親子の情というものが、だんだんと稀薄になっていってしまうのでしょうか。思い起こせば、第二次世界大戦後、家督相続の制度がなくなったあたりから、その伏線はあったように思われます。

 話は変わりますが、先日、たまたま見ていたテレビで、「えっ」と驚くことがありました。

 「リサイクルはしない方がいい」というのです。ある偉い大学の先生の主張なのですが、使用済みのペットボトルを再生するには、新しく作るより、数倍の石油を消費しないと出来ないというのです。さまざまなデータを元に、回収するための輸送燃料、処理するためのエネルギー、そのほか薬剤やら何やらで、人件費はかかるは、石油は無駄遣いするはで、何らいいことがないというのです。いちばんいいのは、できるだけ近くで、焼却することだというのです。

 すべてのリサイクルに、これが当てはまるかどうかは知りません。名古屋市でも、リサイクルの歌まで出来て、さあこれから本格的に動き出そうという矢先、このような主張が一方ではあるとなると、いったい何を信じていいか分からなくなってしまいます。

 以前「善」であったことが、「悪」になってしまうという、価値基準の逆転現象が、これからも少なからずあることでしょう。如来に生かされている自分に恥じない生き方を見つけていきたいものです。(00/4)