『六波羅蜜』

 今月の言葉は「布施」であります。先月の「忍辱」に引き続いて六波羅蜜の一つです。その六波羅蜜というのは、大乗仏教の菩薩が実践すべき六種の徳目のことで、「ろっぱらみつ」とも読みます。仏教語の解説は、どうしても煩雑になりやすく、申し訳ありませんがしばらくご辛抱下さい。

 波羅蜜とはサンスクリット語のパーラミターを音写した言葉です。では、パーラミターは何かというと、あの『摩訶般若波羅蜜多心経』の「波羅蜜多」と同じ言葉で、彼岸(悟り)に到る行と解されています。ですから、「六波羅蜜」も、彼岸に渡るという意味から、「六度」という場合もあります。この場合の「度」は「渡」と同じで、同様な用例としては「済度」があります。ただ、これには異説もあって、言語学的には多少意味合いが違うようですが、ここでは伝統的解釈に従ってみていくことにいたします。

 その個々は、@布施(与える)、A持戒(戒律を守る)、B忍辱(耐え忍ぶ)、C精進(努力修行)、D禅定(精神集注)、E智慧(般若ともいう)の六種で、最後の智慧波羅蜜こそが肝要とされ,前の五波羅蜜は、これを得るための準備手段として必要なものとされます。

 さて、これらは菩薩の実践すべき徳目ということであれば、われわれ凡夫(俗人)には関係ないことかというと、そういうものではありません。大乗仏教における菩薩というのは、『大智度論』によれば、仏陀の道を学ぼうとする心をもった人と解釈されており、つまり、私ども凡夫であっても、その心さえあれば菩薩でありうるわけです。ただ、だれしもというわけにはいかず、利他行(他人の幸福や利益になることをする)を行う者で、大願と不退転と勇猛精進の三条件を菩薩の資格としています。端的にいえば、求道者ということになりましょうか。

 いいや、自分はとても求道者なんておこがましいと思われるかもしれません。確かに、Aの持戒においては、在家信者の場合、まず、五戒[@不殺生(生命のあるものを殺さない)、A不偸盗(与えられないものを取らない)、B不邪淫(みだらな男女関係を結ばない)、C不妄語(いつわりを語らない)、D不飲酒(酒類を飲まない)]を守らねばなりません。

 さらに、月のうち8・14・15・23・29・30の六日間(六斎日)を布薩の日といって、先の五戒に、E装身具をつけず、歌舞を見たり聞いたりしないこと、Fベッドに寝ないこと、G昼をすぎて食事をしないこと、を加えた八斎戒も守らねばなりません。当然ですが、Bは不邪淫ではなく、この日は全面禁止で、禁欲せねばなりません。この布薩日は、日の出とともに戒を受け、翌朝の日の出まで守る、在家信者のいわゆる「精進日」であり、出家者に準じた修行であります。

 五戒、八斎戒にしても、個々の一つ一つを見れば、あながち守れないものでもないと思うかもしれません。しかし、厳密に考えていくと、これらの戒を保つことは、極めて難しいことに気づきます。Dの不飲酒はひとまず置いておくとしても、先ずもって、@の不殺生が守れません。人を殺すことは論外として、生命を持った動植物を食物として口にせねばならない人間の宿命として、自らが手にかけて殺す殺さないに関わらず、命を奪っていることに代わりはないのですから。

 よって、大願と不退転と勇猛精進の志を持っていたとしても、とてもかなうものではありません。ならば、守れないような戒律が、なぜあるのでしょう。六波羅蜜で、なぜ保てというのでしょう。

 浄土の教えの出発点は、まさにそこにあるのです。他に与えることも、戒を保つことも、耐え忍ぶことも、努力することも、精神集注も、すべてが中途半端で、まして、仏の智慧を得ることなぞ、とても望める器ではないとの自覚こそが大切なのです。この思いがないと、阿弥陀仏には向かえないのです。

 近年、ボランティア活動が盛んになってきてたいへん喜ばしいことですが、そのことを自慢したり、悟りへの道なんて、間違っても思わないことです。お金のかからない笑顔の布施ですら、打算の入る私たちです。布施を本気でするには、それこそ自分の命と引き替えにするほどの覚悟が必要です。

 中途半端の凡人であるから阿弥陀様は救ってくださるのです。そして、その己の不完全さを知るために、六波羅蜜はあり、しかも、実際に行い励まないかぎり、そのことに気づけないのです。(00/3)