『六波羅蜜寺』

  脛が見えるほどの短い衣を着て、草鞋を履き、胸に鉦鼓台をつけて鉦を下げ、手に撞木と鹿杖を持っているお坊さんの像をご覧になったことがありますでしょうか。その口からは、小さな像がこぼれ出ていて、多分一度ご覧になれば忘れることはないほど、特徴的なお姿をしています。『マイペディア 』には、写真とともに、次のように記載されています。

◎空也(九〇三〜九七二)

 平安中期の僧。弘也とも。市聖、阿弥陀聖と称された。浄土教の先駆者。出身地不詳、皇孫とも伝える。諸国を遊歴し九二四年尾張国分寺で出家。天慶年間(九三八年〜九四七年)京都で念仏により庶民を教化。踊念仏を始めた。九四八年比叡山で受戒し光勝といった。応和年間(九六一年〜九六四年)に京都で建立した西光寺は現在の六波羅蜜寺とされ、ここの空也上人像は有名。のちの民間布教の僧らに大きな影響を与えた。

 また、『岩波仏教辞典』には、

 空也のほぼ同時代に源信がおり、主として比叡山を中心に貴族や僧などの知識人の間で知的な浄土教を弘めていた。それに対して空也は、庶民の間に遍歴遊行して情動的・狂躁的な浄土教を弘めた点に特色がある。六波羅蜜寺には、口から六体の小さな阿弥陀仏を出す空也像(康勝作)が伝えられており、民間を遊行して歩いた念仏聖の生活と面影をよく写し出している。

と、紹介されています。

 貴族中心の世の中であった平安時代のころにあって、民間の中で活動をした僧の記録が残ることは少なく、今日まで伝わりにくいものです。ところが、空也上人の場合、自らはその経歴や思想について記述を残さなかったにもかかわらず、同時代の文人貴族にもその活動が注目されるところとなり、いくつかの書物により、その生涯の事跡が今日まで伝えられところとなりました。

 険しい道の岩を削って平らかにし、井戸を掘り、橋を架け、野辺に捨てられた遺骸を火葬にして弔い、市中で乞食をしては貧民に与え、囚人を供養し、孤児を慰め、病人を救い、鉦をたたきながら、念仏を高唱し、「極楽ははるけきほどと聞きしかど、つとめて(瞬時に)いたる所なりけり」「一たびも南無阿弥陀仏といふ人のはちすの上にのぼらぬはなし」という歌を、京都の人のたくさん集まるところや家の門にはり、浄土教を民間に布教した理想的な聖として、貴族にも、もちろん庶民にも慕われ敬われた結果ということができましょう。

 ところで、以前から疑問に思っていたことがあります。それは、空也上人が持っている杖です。なぜ、鹿の角が先に付いているのだろうか、ということです。これには、こんなエピソードがあったのです。

 空也上人は鹿を可愛がり、その鳴声をこよなく愛していたといいます。ところが、平定盛がその鹿を射殺してしまったために深く悲しみ、その毛皮で衣を作り、角を杖の頭につけて念仏を唱え歩いたというのです。そのことを聞いた定盛は悪業を悔いて、一宇の寺を創建し、空也を開山とし、自ら第二世になったということが、空也堂(天台宗・京都市中京区蛸薬師通り)という寺の縁起に記されているそうです。

 もう一つ、忘れてはならないエピソードがあります。京都に疫病が流行したとき、人々から浄財を集めて、一丈の観音像、六尺の梵天・帝釈・四天王の像を造立し、また金泥の『大般若経』一部六百巻の書写を発願し、十三年間かかって完成し、賀茂川の河原で盛大な供養を営み、その地に西光寺を建てたというのです。それが、後に六波羅蜜寺(真言宗智山派・京都市東山区松原通大和大路)と改称され、今日に至っているわけです。

 六波羅蜜寺のご本尊は、空也上人自らが刻んだと伝えられる十一面観音像で、ふだんは秘仏となっていて、辰年の時だけに、ご開帳されるのだそうです。

 寺に問い合わせたところ、辰年である今年(平成12年)は十一月三日から、十二月三日までとのことです。かなり先のことになりますが、西国三十三所第十七番の札所でもあり、これを機会に、参詣されてはいかがでありましょう。(00/2)