『人生のシナリオ』

 

 明けましておめでとうございます。旧年中は、たいへんお世話になりました。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 われわれ日本人は、忙しかったり、楽しいことが重なったりしたときなどに、「盆と正月がいっしょに来たようだ」といったりしますが、それだけ盆や正月には特別な思い入れがあるものといえます。ハレ(晴)とケ(褻)という概念からすれば、酒、おせち、餅など特別な食膳が用意され、衣服も晴れ着に改め、普段の仕事から解放されて、軽い興奮状態で過すことが許される、年中行事の中でもハレ中のハレ、二大イベントということが出来ます。特に正月は、楽しいこと、めでたいことがいっぱい用意され、子どもだけではなく大人にとっても、待ち遠しい日に違いありません。

 そんなめでたく楽しいはずの正月を、一休禅師は、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と、狂歌に詠んでいます。「門松を飾って、『めでたいめでたい』といって浮かれておるが、そんなものは、最終目的地である死まで、あと【何q】と書いてある道路標識のようなもんだ」と、皮肉っぽく警告されているわけです。

 何時訪れるかは分かりませんが、必ずやってくる死に対して、十人おれば十様の、百人おれば百様の反応の仕方があるようです。死期を悟り、従容として逝かれる方もあれば、死への恐怖から、「溺れる者は藁をも掴む」ではありませんが、暴れまくって逝かれる方もあります。しかし、死に方も、その人の個性ですから、どのような死に方が良くって、どのような逝き方が悪いかということは、一概にはいえません。ただ、死は、必ずやってくるものであり、わが人生劇場を、誰あろう主演である自分がフィナーレを演じるわけですから、即興ではない、じっくり練ったシナリオを、出来れば準備しておきたいものです。

 このシナリオ作りには、いろいろな方法があります。ある方は、正月に、毎年きまって遺言を書くといっておられます。また、俳句や和歌をなさる方で、辞世の句や歌を準備されている方もおられます。あるいは、死の疑似体験をするという方法もあります。

 医師から、「あなたの余命は三ヶ月です」と告知されたと仮定して、その三ヶ月をどう生きるか、シミュレーションしてみるのです。医師の告知をどう受けとめ、病室のドアのノブをどう開けるか、というところから、克明に順を追っていくわけです。誰に最初にそのことを伝えるか、ということはもちろん、思い残しのないよう、重い問題だけに、涙で頬を濡らすくらい真剣に考えるのです。しだいに体力は衰え、患部の痛みは、日を追うごとに激しさを増します。さあ、どうするか考えるのです。

 その人が何をいちばん信じているかによって、対処の仕方が違ってきます。

 通帳とハンコを握って、痛みを堪えている拝金信者の人に、はたして、痛みが失せ、優しい慰めのことばが素直に聞こえるでありましょうか。

 拝めば何とかなる、まだまだ拝み方が足りないと、ひたすら拝んでいる御利益信者の人に、死なないという御利益が授かるでしょうか。神仏は自動販売機ではありませんから、賽銭を入れて、拝めば御利益が、ゴロンゴロンと出てくるようなことはありません。

 法然上人のたまわく、「行すくなしとても疑うべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑うべからず」でありますから、拝み足りないということはないのです。また、西山上人は、「はげむも悦ばし正行増進の故に。はげまざるも悦ばし正因円満のゆえに」と示され、励む励まざるにかかわらず、われわれはもう既に、阿弥陀さまの慈悲の手の中にすくい取られているのです。

 阿弥陀さまを信じ、阿弥陀さまにお任せすればよいのです。生死は人間の意のままになるものではありません。不如意なものなのです。ボケを恐れてはいけません。寝たきりを恐れてはいけません。老、病、死は、決して美しいものではありません。美しく死のうなんて思わないことです。

 今年の正月は、西暦二千年ということで、いろいろ取りざたされておりますが、自分自身の人生のシナリオ作りにも挑戦してみてはいかがでありましょう。(00/01)