『本間雅晴中将とその夫人』

 第二次世界大戦が終わって、既に半世紀が過ぎています。わたしを含め、戦争を知らない世代が増えてきています。この平和が、ずっと継続されることが望まれますが、今も戦争している国、臨戦態勢にある国、世界には悲しい思いをしている人たちがたくさんいます。

 戦争は、人と人とが殺し合う悲惨この上ない事態でありますが、時として深く感銘を受ける話も伝え聞くことがあります。今回は、そんなお話をさせていただきます。

 太平洋戦争の開戦と同時に日本陸軍の第十四軍はフィリピンに進攻し、昭和十七年一月二日にはマニラを占領しました。しかし、この間、アメリカ・フィリピン軍は決戦を避けて主力をバターン半島に撤収させ、以後、堅陣に拠って激しい抵抗を行いました。このため日本軍は大きな損害をこうむりましたが、兵力の増強をえて四月上旬には同半島を攻略し、五月七日にはコレヒドール要塞を占領してフィリピン全域を完全に制圧しました。

 これは「バターン攻略作戦」と呼ばれていますが、この作戦の終了直後、日本軍は疲弊しきった捕虜を徒歩で移動させたため多数の死傷者を出し、また捕虜に対する暴行も行われたため、「バターン死の行進」として国際的に激しい非難を浴びるところとなりました。

 第二次世界大戦が終わり、昭和二十一年二月八日、戦争犯罪人として当時の司令官であった本間雅晴中将は、フィリピン・マニラの軍事法廷にかけられました。その証人として喚問された人の中に、本間富士子夫人がいました。そのとき夫人は、

 「わたしは今なお本間の妻たることを誇りにしています。わたしは夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。わたしが、本間に関して証言することは、ただそれだけです……。」

と、涙とともに証言をし、その毅然とした姿に、裁判官も検事も感動の涙を流したといわれます。また、傍聴にきていた米国の看護将校(女性)たちは、閉廷後、本間夫人を取り囲み、抱擁し、「あなたは女性として、妻としてもっともすばらしい証言をされた」と讃辞を贈ったといわれます。

 判決は、死刑。次は処刑十日程前の、夫人へ遺言です。……

《廿五日 妻へ》

 書き残したい事は既に書きつくし、言い残したいことも大てい言った。もはや此の世に残して置きたい事はなくなった。

 ただ妻への感謝をまだ充分に言いつくさぬように思う。二十年の結婚生活の間、随分と意見の相違もあり、激しい喧嘩もした。この喧嘩も今はなつかしい思い出となった。

 いま別れの時に際して御身のいい所が特に目について欠点と思われるものはすっかり忘れてしまった。私が亡くなっても子供達は御身の手によって正しく強く成育すると思うから少しもこの点に心残りはない。(中略)

 二十年の歳月、短いようで長い、仲よく暮らした事を思うて満足している。あの世とやらがあるならそこで又々夫婦となろう。先に行って待っているが急いで来てはならぬ。子供達の為になるべく長く、この世に寿命を保って私の出来得なかった事、即ち孫や曾孫を抱いたり撫でたりして、あの世で逢う時には沢山その土産ばなしを聞かせてくれ。どうも長い間世話になって有り難う。……

 処刑は、昭和二十一年四月三日、午前〇時五十三分、ちょうど四年前に、陸軍第十四軍司令官本間中将の口より総攻撃の命令が下された同じ月日、同じ時刻にあわせて執行されました。

 当時、、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑であったのに対し、本間中将の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であったとのことです。やはり、夫人の証言が大きく影響しているものと思われます。

 戦争の悲惨さ、そして夫婦のあり方、この話は、いろいろなことを教えてくれます。(99/02)