『髑髏で祝う元旦』

 明けましておめでとうございます。今年は平成十一年、西暦でいえば一九九九年、カレンダーに印刷されたこの数字を見ますと、さすがに、二十世紀も、もう終わりなんだという感慨が、自ずと湧いてまいります。ただ、西暦はもちろんイエス・キリストの生誕の年を元年としているわけですが、本当のところは、もう少し前に生まれていたというのが定説になっています。ということは、このところ「世紀末」云々がよく話題になりますが、実際はもう数年前に過ぎてしまっているというふうに考えればいかがなものでしょう。

 しかし、気候温暖化・オゾン層の破壊・産業廃棄物・環境ホルモン・クローン人間・遺伝子操作・凶悪犯罪の多発等々、まさに世紀末を感じさせるような膿がジュクジュクしている現実も否定するわけにはまいりません。それらどれ一つをとってみても、一歩間違えれば、いつ人類が消滅してもおかしくないものばかりで、いうにいわれぬ焦燥にかられるのは私だけではないでしょう。

 大量生産して、大量消費するという経済構造が、捨て場所がないほどの大量のゴミを生み、環境をどんどん悪化させ、公害やアレルギー疾患が子供たちの健康を蝕み、そして、経済そのものに破綻を来してきているというのが、今日の不況の根元にあるのではないでしょうか。ですから、商品券を配って、大型減税をして、消費経済を活性化させようというのは、二日酔いのときに、迎え酒を飲ませて誤魔化そうという手法にも似て、抜本的解決法にはなり得ないでしょう。

 奇しくもこの原稿を書いているときに、いきなり二つの驚くべきニュースが前後して飛び込んできました。

 一つは、韓国で「クローン人間」一歩手前の体細胞実験に成功したというニュースです。地元韓国内では、早急に実験禁止を法制化しようという動きがあるとともに、「難病治療に画期的な進歩をもたらす」と評価し、称賛する声もあると報じておりました。

 今回はたまたま韓国で行われましたが、どこの国で行われたとしても、この実験に対する反応は、おそらくあまり変わらないと思われます。実験をした教授によれば、クローン技術は無限の可能性があるといいます。確かに、拒絶反応が全く起きない臓器移植ができるとなれば、色めき立つ心も分からないではありません。しかし、たとえば、心臓の悪い患者に提供するクローンの心臓は、クローンなるが故に、同じ疾患を持っているという矛盾は生じないのでしょうか。また、延命治療が、必ずしも善ではないことは、患者からも看護する家族からも、本音の話としてよく聞かされるところであります。自然の摂理に背くことは、やはり、よくないことに違いありません。

 もう一つは、またしても米国がイラクを空爆したというものです。国連査察を受け入れないことへの制裁というのが建前ですが、クリントン大統領の不倫もみ消し疑惑に対する弾劾審議が目前に迫った時点の決断であり、疑惑隠しが指摘されています。しかも、その作戦の名称が「砂漠のキツネ」とは、あまりに思慮に欠けているように思います。米国内では空爆に肯定的のようですが、私情によって多くの命が奪われ、歴史が塗り替えられてゆく、これも現実なのでしょうか。

 あの一休禅師に、こんなエピソードがあります。

 ある年の元旦のことです。墓場から髑髏を拾ってきて、竹竿の先に結びつけて、京都の市中を「めでたい、めでたいのう」といって歩き回り、「この頭蓋骨には、二つの目玉があった。だが、今は飛び出してもうて、ここにはない。目が出た、目が出た、目出度いのう……」と演説したといいます。
 また、商家の門を叩き、髑髏を突きつけ、「ご用心、ご用心」といって驚かせたといいます。

 奇行にも思えますが、おのれの生死を見据えずして、目先のことに現を抜かしていることへの警告であったと考えられます。

 缶コーヒーのボスでも飲んで、先の教授に、クリントンに、髑髏を突きつけてみましょうか。(99/01)