『仏に生かされて』

 平生、法務には車を利用させていただいておりますが、運転中、大体においてラジオを聴いています。ただ、決まった時間にいつも聴けるという状況にはないものですから、車内にいるとき限定の聴取者(リスナー)ということになります。

 そんな中、一つの興味深い番組があります。日曜日を除く毎日、昼少し前にCBCで放送されている『人生相談』です。電話でかかってきた相談者に、番組のパーソナリティーと有識者とが適切なアドバイスをするという、よくある形態の番組なのですが、問題は番組が終わった後なのです。すぐさまファックスで送られてきたリスナーからの相談内容についての意見はもちろんのこと、アドバイス者に対する批判意見までも取り上げて、喧喧囂囂、それはもう大変な番組が引き続いてあるのです。

 人の不幸を肴に、寄って集って、中には茶化すものまであったりして、不謹慎といえば、確かにそうなのですが、実際に同じような悩みを体験した人からも意見が寄せられたりして、それこそ本音の部分での意見がリアルタイムに出てきますので、タイミングよく聴けた時などは、ついつい耳を傾けております。悩み苦しんでいる人には酷かもしれませんが、不倫・不和・ギャンブルと、「縁なき衆生は度し難し」の諺がそのまま納得できてしまいそうな人も随分といるものであります。

 私たち、時として不幸に直面した場合、人それぞれにさまざまな態度をとるものです。不幸を、運が悪かったのだとか、前世の宿縁によるものだから致し方ないことだと諦めることも、一つの方法ではあります。しかし、そこには、神仏に対して、先祖に対しての怨みを生むことになり、健全な態度とはいえません。精神衛生上も好ましいことではありません。また、こんな話もあります。……

 あるおばあさんが、毎日のように寺に来て、阿弥陀さまの前で手を合わせて、「私は生きているのが嫌になりました。嫁にはいじめられ、孫にまで馬鹿にされ、家族から邪魔者扱いされて何の楽しみもございません。どうぞ早くお迎えに来てくださいまし」とお願いしておりました。それを聞いていた小坊主が、ある日それならばと、阿弥陀さまの後ろに隠れて待っておりました。いつものようにおばあさんがやって来て、お願いをし終えたよい頃合いをみて、「よしよし、そこなるばばよ。願いは聞き入れた。まもなく迎えにいってやろうぞよ」と作り声で言いました。

 おばあさんは、びっくりしたのなんの、思わず、「勿体のうございます。それには及びません。行く時は、私の方から参ります」と言ったのだそうです。……

 これは作り話でありましょうが、人間、苦しければ死にたいと思うのも本当、いざとなれば死にたくないと思うのも本当であります。確かなことは、命は、自分の思いどおりになるものではないということです。つまり、我が命は仏に生かされているのだという自覚が大切なのです。そして、その仏に感謝する心を持つと同時に、仏を苦しめている、いたらない自分を懺悔する心を持つことが大切なのです。

 では、何を懺悔すればいいかというと、「心に三つ、身に三つ、口に四つの十悪業」ということがいわれております。

 よくない心の働きとして、貪欲(貪る)・瞋恚(怒る)・邪見(誤った見方をする)の三つがあります。よくない身の所作は、殺生(殺す)・偸盗(盗む)・邪婬(犯す)の三つの行為があります。「口は禍の門」と申しますが、口は一つ多くて、妄語(嘘をつく)・両舌(二枚舌を使う)・悪口(悪口をいう)・綺語(無益なおしゃべりをする)の四つがあります。

 法然上人が、「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ」という和歌を残されています。私ども、仏の慈悲を平等にいただいていても、それに気付く気付かないは、我が心の持ちようであります。愚痴を言い、怒りちらして、人を傷つけるのも、感謝、懺悔の心でお念仏を称えるのも、我が身の口であることを心しておきたいものです。
(98/12)